特集 礼拝における賛美
プロテスタント教会は、礼拝でささげられる賛美を絶えず刷新し続けてきた。この特集では、今日における賛美のあり方と、礼拝における賛美の成熟とは何かを考える。
大衆音楽の豊かさを教会音楽に ミクタムレコード五十周年
拡大宣教学院学院長 イエス・キリスト福音の群・東北中央教会牧師 永井 信義
日本の教会音楽、特にいわゆるプレイズ・アンド・ワーシップ(賛美と礼拝)の分野において先駆的な働きをしてきたミクタムレコード(以下ミクタム)が五十周年を迎えた。小坂忠、高叡華夫妻によって始められたこの働きは、実に多くの礼拝奉仕者、クリスチャン・アーティスト、教会音楽家に影響を与えてきたこと、その貢献はさまざまな分野に及んでいることはだれもが認めるところである。
その創成期(四十五年以上も前)にこのミニストリーと出会い、数々の恩恵にあずかってきた者として、その五十周年に合わせて出版された、『賛美と礼拝セミナーBOOK』(いのちのことば社)の内容に触れつつ、これからの日本の「賛美と礼拝」の展望についても論じていきたい。
『賛美と礼拝セミナーBOOK』に「音楽は創造主なる神をほめたたえるために、神が教会に与えられたものである」(11頁)とあるが、音楽、そして、すべての芸術は、神からのものである。つまり、すべての創造的、かつ、美的表現の源は神にあると言えよう。そして、「神は人をご自身のかたちとして創造された」(創世1・27)にあるとおり、「神のかたち」に造られた私たちには、その創造力、美的表現の力が与えられている。
音楽を含め、この神が与えられた賜物を、教会、そして、一人ひとりのキリスト者は神の栄光のために用いるよう召されている。本書ではさらに「教会は、悪魔の手の中にある音楽を本来の目的のために奪い返す必要がある。大衆音楽に本来的に与えられている神の賜物としての豊かさを教会音楽に反映させることが、クリスチャン音楽家が取り組むべき課題である」(12頁)と言及されている。教会音楽と聞くと、私たちの多くは特定の音楽ジャンルを思い浮かべてしまうが、すべての音楽ジャンルが神を賛美するために用いられる可能性を有していると考えられる。
使徒の働き12章に、ヘロデによって牢に捕えられたペテロが、教会が「熱心な祈り」を神にささげる中、「主の使い」(御使い)によって解放される出来事が記されている。救い出されたペテロは、その「多くの人々」が祈っていた「マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家」に行くが、そこで興味深いことが起きている。ペテロがその家の門をたたくと召使いのロデが応対する。ペテロの声だとわかると、彼女は「喜びのあまり門を開けもせずに奥に駆け込み、ペテロが門の前に立っていることを知らせた」(12・14)が、そこに集まっていた人々はペテロの解放を祈っていたにもかかわらず、彼女のことばを信じることができなかったのである。
長い間、日本のキリスト教会においても同じようなことが起きていた、いや、今も起きているのではないだろうか。つまり、教会の外では音楽に「本来的に与えられている神の賜物として豊かさ」が享受されているにもかかわらず、教会の中ではそれがなかなか受け入れられない。「すべての良い贈り物」は「光を造られた父から下って来る」(ヤコブ1・17)のだから、教会こそがその「豊かさ」を用いていくことが求められているのではないだろうか。
かなり飛躍した解釈であることを承知しつつ、ミクタムは「ロデ」のような働きをしてきたのではないかと考えている。神によって贖い出され、神が与えてくださった音楽の豊かさを、「喜び」をもって教会に知らせ続けている。「門」を開けたのはそこに集まっていた人々、教会であったことからも、今日も「門」を開けるのは、教会にゆだねられている働きである。「聖と俗」(もしくは「肉と霊」)という二元論的な視点から脱却し、この世界のいたるところで神が用意しておられる「すべての良い贈り物」を受け取る謙虚さと大胆さが教会に与えられることを祈りたい。
教会、そして、すべてのキリスト者は三つの関係、神との関係(礼拝)、他の教会、キリスト者との関係(交わり)、この世との関係(宣教)に招き入れられている。『賛美と礼拝セミナーBOOK』の中で、いつの時代においても教会音楽に求められるものとして、「大衆性」、「日常性」、「垂直性」が言及されている。三つの関係にあてはめると、礼拝における「垂直性」、交わりにおける「日常性」、宣教における「大衆性」となるだろう。
この三つの関係において、教会音楽はこれまでも用いられてきたが、一層激しく、スピード感をもって変化していく現代社会の中で、教会の礼拝、交わり、宣教の場で音楽がさまざまな役割を果たしていくために、よりクリエイティブで、多世代に届くためのイノベーションが求められる。まさに本書の中で次のように提言されているとおりである。
「多くの人々を獲得するために、大衆音楽が本来的に神から与えられている豊かさを教会が吸収し、人々にとってより親しみ深く、しかも質の高い教会音楽を生み出していく必要がある」(14頁)。
好評既刊賛美と礼拝セミナーBOOK
教会の礼拝とそこでささげられる賛美の関係を追求し、日本の教会の礼拝賛美に新たな世界を切り拓いてきた、ミクタムでの半世紀にわたる歩みと提言。礼拝者の霊性、技術、また準備や備えのために、みことばに根ざしつつ、具体的に学んできた集大成。
エペソ書から見つめ直す「礼拝における賛美」の成熟
福音讃美歌協会理事 日本福音キリスト教会連合・結城福音キリスト教会牧師 飯田 勝利
「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」(エペソ5・19)
コロナ禍が問いかけた礼拝と賛美
「礼拝における賛美」と聞くと、私は会堂での主日礼拝を思い浮かべます。しかし、コロナ禍で教会に集まれなくなると、礼拝や讃美の本質が問われることになりました。多くの教会はオンライン礼拝を導入し、当教会は礼拝全体を文字起こしした「礼拝と祈りのガイド」を届けるアナログな「紙上礼拝」を試みました。
しかし、私は何か窒息感を感じていました。それは単に寂しかったからではありません。聖書が教えるキリスト者本来の歩み、すなわち、栄光化を待ち望みながら「交わりを讃美の中で持つ」という、聖霊によって新しく生まれた命の自由な活動そのものが、外的な力で妨げられたからです。私はこれをエペソ5章15~19節から教えられました。
エペソ5章19節の文脈
エペソ書が教える教会は、やがて天にあるものも地にあるものも、一切のものがキリストにあって一つに集められるという「みこころの奥義」の実現の時を目指して(1・9~10)、かしらなるキリストへと成長していく存在です。
そのような教会の歩みがエペソ4~6章で五つ示されますが、第五の「自分がどのように歩んでいるか……注意を払いなさい」(5・15~6・9)という勧めの中に19節の讃美の教えは登場します。ですから、讃美は、自分の歩みに注意を払い、よく意識していることが前提になっています。
私たちが歩む道は、父なる神様が天地創造の前に、愛をもってあらかじめ定めてくださった祝福の道です(1・3~5)。この道を歩む私たちを栄光の度合いで見ると、創造前の計画段階で定められた「御子のかたちと同じ姿」(ローマ8・29)という最終目標は、被造物としてはこの上ない充満な栄光の状態です。しかし、実際に「神のかたち」(創世1・27)として創造された段階では、他の被造物より高いけれども御使いよりは低い状態で(ヘブル2・6~8)、差がありました。
この差は人が栄光の神様と交わり、従うときに、御霊の働きによって栄光化されていくことで縮まっていくはずでした(Ⅱコリント3・7、出エジプト34・29のモーセの例)。しかし、サタンが、善悪の知識の木の実を食べれば神のようになれる(つまり、最終目標に一気に到達!)、神はそれを知っていると惑わすと、人はそれを信じて食べてしまいました。それで、人は罪に堕落し、神様との交わりを失います。
それでも父なる神様はみこころを変えず、御子の十字架の死と復活による救いを成し遂げられました。その福音を信じた私たちは罪の赦しと永遠の命をいただき、神のかたちとしての栄光と尊厳を回復されたばかりか、父なる神様のみこころに従って、御霊の働きにより、御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えていただいているところです(Ⅱコリント3・17~18)。
やがて、世の終わりにイエス様が再臨されるとき、私たちは「キリストをありのままに見る」ほどのご臨在に近づくことができる栄光を与えられ(Ⅰヨハネ3・2)、さらに深い愛の交わりに生きる者とされます。その時、朽ちる体も新しくされ、私たちの歩みの最終目標は名実ともに完成します。
皆さんは、天地創造前に定められた「御子のかたちと同じ姿」への栄光化に向けて、御霊によって自分が歩んでいることを胸に刻んでおられますか。栄光化に向けてよく歩んでいることに各自が注意を払い、意識し続けること。教会の讃美にこれを欠かすことはできないのです。
讃美の「十字架構造」
では、今の悪い時代にあって、教会はどうしたらこの栄光化への歩みに注意を払い続けられるのでしょうか。パウロは、機会(時)を十分に活かすことで、と答え、積極的に動き出すよう励まします(エペソ5・16)。そして、みこころをわきまえ(同17節)、御霊に満たされなさい、と教えます(同18節)。
5章19~21節には、御霊に満たされた結果生じる五つの行動(語る、歌う、讃美する、感謝する、従う)が記されていますが、その最初が「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合う」ことです。興味深いことに、「互いに語り合うこと」は「主に向かって讃美し、歌うこと」よりも先に登場します。「語り合う」とは単に言いたいことを言うのではなく、声を出してコミュニケーションをとって「交わる」ことであり、その手段に「詩と賛美と霊の歌」という「讃美の三点セット」が挙げられています。
ここには、讃美を中心に主の民に向かう横の線と神に向かう縦の線があり、いわば「讃美の十字架構造」が見て取れます。讃美が交わりの手段とされるからといって、讃美が交わりより劣るわけではありません。むしろ、讃美が交わりの霊性を支えています。讃美は場を和ませるためではなく、共にいてくださる主に向かって、心を込めてささげられます。これにより、私たちの交わりは主にあって成立していることを告白しているのです。
私たちにとって、主の日の礼拝讃美という一コマだけが神へのささげものなのではありません。栄光化への歩みに注意を払いながら、御霊に満たされて、主を心から讃美し、語り合う交わりそのものも、神へのささげものです。そのような交わりにおいて少しずつ御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えられることが、「礼拝における賛美」の成熟につながるのではないでしょうか。
逆に、コロナ禍で讃美や交わりの機会を失ったことは、栄光化への歩みを意識する機会をも失わせました。その喪失に対する言葉にならないような教会のうめき。それが窒息感の正体だったように思います。
讃美の交わりに『教会福音讃美歌』を
コロナ禍の霊的窒息を経て、私は改めて交わりと讃美の重要性に気付かされました。エペソ5章から学ぶのは、栄光化への歩みを意識しながら、積極的に交わりを讃美の中で持つことです。
しかし、これは新しい試みとも言えます。当教会でも、礼拝や聖書研究会、祈祷会は毎週あっても、交わりを目的にした「讃美会」はありませんでした。皆さんの教会はいかがでしょうか。「御子のかたちと同じ姿」という最終目標に至る歩みに注意を払い続けるために、交わりを讃美の中で持つことが日本の教会でたくさん生まれることを期待します。そして、そこで『教会福音讃美歌』や小歌集『あたらしい歌2』『あたらしい歌3』が用いられるなら幸いです。
「霊なる主 はたらきて われを聖め
主と同じ姿に 変えられん
ハレルヤ ハレルヤ
ハレルヤ 主をほめよ
新しき歌を 主に向かいて歌わん
主の民と共に歌わん 歌わん」
(教会福音讃美歌330番「主と同じ姿に」3節)
好評既刊教会福音讃美歌
わかりやすく、美しいことば。歌いやすく讃美歌が収録された一冊。『讃美歌』『聖歌』『讃美歌21』『新聖歌』等から、諸教会で親しまれている従来のレパートリーに加え、海外の優れた作品、現代日本の創作讃美歌を多数収録。収録曲数506曲。