伝わる言葉で伝える福音 第21回

「失敗を語ろう!」1

青木保憲
1968年愛知県生まれ。小学校教員を経て牧師を志す。グレース宣教会牧師、同志社大学嘱託講師。映画と教会での説教をこよなく愛する、一男二女の父。


人と話していて、相手の「語ったこと」がいつまでも心に残ったことはないだろうか? 私はある。それは、同じような体験をしたことがあった場合、そこに親近感を抱くからである。例えばこんな話。
「先日、自販機で飲み物を買ったんですよ。千円札を入れて、流行のジュースのボタンを押したんです。すると大きな電子音がして、自販機全体が光り出したんです。自販機の上をみるとバナーがあって『当たり付き!』とあるじゃないですか。『やった!』と思った私は、もう一本同じジュースのボタンを押したんです。すると、なんとまた電子音と共に自販機全体が光り出したんです。『お! ダブルで当たった! 昨日礼拝に時間どおり行けたから、これは神様からのご褒美だ!』と思った私は、ついでにもう一本、妻の好きなお茶のボタンを押したんです。するとまた電子音と光が……ここで私はハッとしたんです。なぜって、残金表示が七百円になっていたからです。私は単に、千円を入れて、百円のドリンクを三本買っていただけだったんです。思い込みって恐ろしいですよね……」
この話を聞いたのは、今から四十年近く前のこと。当時大学生だった私が参加した青年キャンプ(今のユースキャンプ)で講師の先生が語られたエピソードである。今でもこの話を私は覚えている。どうしてか? それは、私も全く同じ体験をしたことがあったから。そしてもう一つ、この話が「失敗談」だからである。
心理学の専門用語では「ネガティブ・バイアス」と言う。人は基本ネガティブで、楽しい話よりも悲しい話、そして成功談よりも失敗談に心惹かれるらしい。その傾向は、特に現代人で顕著だと言われている。その根底にあるのは「安心感」である。
かつては「良き見本」のような卓越した成功例がもてはやされた。しかし昨今はむしろ逆である。あまりにも飛び抜けた成功を目にすると、良識ある日本人は「自分とは違う人間だ。あんなふうにはなれない」とあきらめて、相手との間に距離を感じてしまう。例えば、学生時代に野球を途中でやめてしまった人が、大谷翔平選手の活躍を見て自分と比べたら、そういう思いになるだろう。
一方、失敗談はその逆である。「あんな立派な人でも私と同じ失敗をするんだ」と思えると、なぜか親近感がわく。青年キャンプの講師をするほどの「偉い先生」でも、私と同じ失敗をするんだ、と思えると、なぜか笑みがこぼれてくる。
一方、失敗談を語る側はそんなに単純ではない。特にその失敗が重い内容である場合、それを開示することに抵抗を抱くだろう。このせめぎあいが、相手に福音を伝える時の分水嶺となる。
考えてみると、キリスト教保守として名高い「福音派」で語られてきたのは「強いキリスト教」である。「福音=罪→神→救い」という三点セットで受け止めてきた私たちは、どうしても最後は「いい話」で終わろうとする。「神様は私をこんなふうに変えてくださった」という成功談を語りたがるのである。この場合、「神様」は私たちの側にいる。
もちろん、こういった話に興味を抱き、「私もそうなりたい」と積極的な反応をする方もおられる。従来の「福音伝道」は、そういった方向けに語られてきた。その結果が「全人口の一パーセント未満」だと言ったら厳しすぎるだろうか?
現代人(特に三十代以下)は、そうは思えないらしい。そういった成功談は「この人は私とは違う」という効果をもたらしてしまう。
むしろ「神様」を私の側に置かず、相手と自分との中間にニュートラルに置く。そして自分の失敗を赤裸々に語ることのほうが、結果的に相手の心を開くことにつながる。
その時、相手の心に去来する思いは「私と同じだ」という安心感になるだろう。この「安心感」が、相手の「次の心の扉」を開くことにつながっていく。(つづく)