キリストの弟子ってなんなん?6

~聖なる生活をキリストと始める~

久保木聡(日本ナザレン教団大阪桃谷教会牧師)
1972年福岡県生まれ。非暴力コミュニケーション(NVC)の講師としても活躍中。著書に『オカリナ牧師の聖書ゆるり散歩』(いのちのことば社)など。


聖なる生活とは、どんな生活なのでしょう? キリストの歩みを見るならば、すべての命を尊ぶ歩みと言えます。相手が取税人だろうが罪人だろうが、共に食事をし、共に過ごそうとします。彼らの尊厳を取り戻していたのがキリストです。
それに対し、パリサイ派や律法学者たちは取税人や罪人と共に過ごすことを避けようとします。わたしたちが思い描く〝聖なる生活〟とは、もしかしたらパリサイ派や律法学者たちの目指した聖なる生活のようなものであって、「あれをしちゃいけない」「こういう汚れた人たちと接しちゃいけない」という理解になっているかもしれません。
ツァラアトに冒された人たちは、汚れた人と見なされ、触れてはならない人とされていました。しかし、キリストはツァラアトの人たちに触れて、癒やし、きよめます。彼らに触れたらキリストが汚れるのではなく、むしろキリストが触れたら、彼らのほうがきよくされたのです。
周囲に暴力をふるう人や依存症で借金まみれの人がいても、キリストはその人たちの命の尊さを知っています。自分を認めてくれない寂しさから暴力的な言動が出たのかもしれません。キリストは暴力を認めませんが、この人の認めてもらえないがゆえの寂しさはどこまでもわかってくださいます。健全なストレス発散の仕方がわからないまま何かに深く依存し、借金まみれになった人に対して、社会生活に支障が出て、借金がかさむ状況をキリストは嘆きます。ただ、それで終わらず、その人と一緒に健全なストレス発散の道がないかと探し、さまざまな小さな依存先を見つけ、生活再建を目指すのがキリストと言えます。
キリストにならう弟子とは、このような歩みを目指すことです。もちろん、信仰的にも人格的にも幼い状態で、こうした人たちにすぐに接してよいかは配慮すべきでしょうが、弟子として成熟していく道がひたすらこうした人たちを避けていく……となると、聖なる生活とは言い難いものとなります。
キリストはこのようにすべての命を尊びます。しかし、人は生まれながらの罪人として、すべての命を尊ぶよりは、自分や家族・仲間さえ良ければと選り好みをし、生きづらさの中にある人を顧みようとしない的外れな歩みをしがちです。そんな自分の罪(的外れ)を認めて、神に罪の赦しを求め、イエス・キリストによる新しい命に生きることを「新生」と呼びます。罪を認め、キリストを信じることによって、「新生」するのです。それは〝聖なる生活〟の始まりです。
まだまだ周囲のすべての命を尊べないかもしれません。そうであっても、信じるあなたの内にキリストが生き始め、すべての命を尊ぶ生き方が始まっていきます。生まれて間もない赤ちゃんは字も読めないし、歩くこともできません。しかし、成長していくにつれて、多くの子は字を読み、歩き始めます。それと同様にすべての命を尊ぶことが始まっていくのです。それはまた、自分の命をも尊ぶことであって、自分の中の大嫌いな自分も愛しく思えていくことの始まりでもあるのです。

考えてみよう!

①あなたにとって〝聖なる生活〟とは、誰かを避ける生き方でしょうか。それとも、すべての命を尊ぶことに向かう生き方でしょうか。
②あなたの内にキリストがいて、「すべての命を尊ぶ生き方」が内側から始まっていくことをゆったりと思い巡らしてみましょう。