伝わる言葉で伝える福音 第18回
「聖書はHoly Magic Wordか?」3
青木保憲
1968年愛知県生まれ。小学校教員を経て牧師を志す。グレース宣教会牧師、同志社大学嘱託講師。映画と教会での説教をこよなく愛する、一男二女の父。
皆さんは「説教」に何を期待するだろうか? いや、そもそも礼拝や集会における「説教」は本当に期待されているだろうか?
よくこんなフレーズを聞く。「なるべく説教は短めに。」こんなことを仲間内で言い合ったり、牧師や説教者に(遠回しに)言ったりしたことはないだろうか?
考えてもらいたい。あなたの好きなアーティストのコンサートに来ているとして、「コンサートはなるべく短いほうがいい」と思うだろうか? もちろん、キリスト教会の集会とコンサートを天秤にかけることは良くない(ホントにそうかなぁ? という気持ちは、今はおいておこう……)。
両者の違いは何だろうか? はっきり言えば「受け手の期待度」である。アーティストのコンサートでは「あの曲、今日演奏するだろうか?」と期待を抱いて会場入りしている。一方、説教にはそこまでの訴求力が期待されていない(ように感じる)。
しかし、言葉では「今日も神のことばに期待しましょう!」とか、「○○先生を豊かにお用いください」と、決まり文句を並べ立てて、説教者を迎えている。そこにコンサートに匹敵するような「期待度」を抱いているだろうか? レギュラーの牧師であっても、特別なゲストであっても、その方が講壇に立ち、皆のほうを向いて、第一声を発する時に、真実「主よ(この先生を通して)お語りください!」と興奮度MAXになるだろうか?
聴衆が説教に期待しているのは何か? その本質は、主をまだご存じでない方(未信者)が聖書の言葉やキリスト教に興味を示すことと、本質的には同じである。それは、今までなんとも思っていなかった言葉やエピソードが説教者の「説き明かし」によって心の琴線に触れ、リアリティを感じられるということである。端的に言えば「あ、なるほど!」と心の中で膝を打つことである。
聖書の言葉を何度も繰り返すだけでは、「説き明かし」にはならない。新たな知識や視点、今まで想像もしていなかった理解の深みに聴衆を連れていくことができなければ、説教はいつまでたっても「短く終わってもらいたい」ものとなるし、未信者にとって「聖書の言葉」は〝シューキョーやってる人〟にだけわかる
「魔法の言葉」としか伝わらない。
このコーナーのテーマである「伝わる言葉で伝える福音」となるためには、まず聖書の言葉をしっかりと咀嚼することである。その言葉が意味することは何か? 別の捉え方はないか? そしてこの言葉を自分流に言い換えたら、どんな言い回しになるか?
私たちは牧師や説教者だけでなく、聖書に向き合うすべての人(クリスチャン、未信者問わず)がおのおのの立場から「説き明かす」権利と力を持っている。その能力を駆使しながら聖書の言葉に向き合おう。
お気に入りの聖句があるなら、あえてこう問うてみよう。「どうして私はこの言葉が好きなのか? いつからか? なぜそうなったのか?」と。ここからあなたの「説き明かし」が始まる。「説き明かし」は、神学を修めた者だけの特権ではない。もっと言うなら、一人ひとりが「神学者」として説き明かせる存在なのである。
しかし、もちろんそれだけでは限界がある。自分の力や経験だけで聖書を受け止めることはできない。だから「説教」があるのだ。だから、別の視点から専門的に説き明かしてくれる説教者が毎週講壇に立ち、そこからあなたが知らなかった聖書の背景、言葉の意味、そして観点を「説き明かし」てくれるのである。ワクワクしないだろうか? それはまるでコンサートに行き、「一曲目はなんだろう?」とか「ラストはこの曲で終わるのかな?」とアーティストに期待するのに似ている。
聖書の言葉をHoly Magic Wordに閉じ込めないで、解放しよう!