伝わる言葉で伝える福音 第17回

「聖書はHoly Magic Wordか?」2

青木保憲
1968年愛知県生まれ。小学校教員を経て牧師を志す。グレース宣教会牧師、同志社大学嘱託講師。映画と教会での説教をこよなく愛する、一男二女の父。


 私の友人で、奇特な性格の方がいた。彼は自分の聖書の裏表紙を差し出し、知り合ったクリスチャンにこう言うのだった。
 「あなたの言葉をここに書いてください。でも、聖書の言葉でごまかさないでください。」
 どういうことか?

 まず、彼は正真正銘のクリスチャンホームの子である。おそらく彼の当時のリアリティとしては、「宗教二世」だろう。要するに少し「ひねくれている」のだ。
 彼にはひとつ、とても大きな疑問があった。それは、はたしてクリスチャンは本当に恵まれた生き方、神に選ばれた人生を歩んでいるのか、ということである。彼はこう言った。
 「青木君、もしさ、本当にクリスチャンが聖書を通して幸せな生き方をしているっていうんなら、それを自分の生活で、自分の言葉で、表していないとね。僕はそうじゃないと信じないよ。ホントに聖書がそう言っているなら、その真理や絶対をつかんでいると主張する人たちの『生の言葉』を聞きたいんだよね。」
 一言一句、こうであったかは定かでないが、そんな主旨のことを彼は確かに言った。そして、冒頭のような行為に至ったわけである。
 こう言われた側は面食らうだろう。私も、幾度もその場に同席したことがある。そして彼にこのように言われたクリスチャンの反応に、一定のパターンがあることに気づいた。それは、「でも……聖書の言葉でよくない?」と頑なに「みことば」にこだわるAパターン。または当たり障りのない言葉を書いて、その場をやり過ごすBパターン(ほとんどがBである)。

 しかし、ある時、一人の年上の男性の方がこう書いてくれた。
 「隣人を愛するために、まず、自分を愛せるようになりたいね!」
 これは「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(マタイ 19・19)に基づく、その発展形である。「自分自身のように愛せ」というところを「はたして自分は自分をちゃんと愛せているか?」と自らに問いかけた結果であろう。そう説明を加えて、この言葉を彼に与えてくれた方がいたのである。
 彼はとても喜んだ。飛び上がらんばかりに。そして、このマタイの箇所について、その年上の男性と長く語り合っていた。最後に共に祈っていた姿は忘れることができない。

 さて、なぜ私はこのエピソードを紹介したのか、お分かりだろうか? この男性はまず、聖句を決して「Holy Magic Word」とはとらえていない。お札のようにこの言葉を使っていない。むしろその言葉の意味するところを咀嚼し、そこから得たものに自分なりのアレンジ(解釈)を加えてアウトプットしている。これこそが、真にみことばをいただいた者の姿ではないだろうか?
 プレゼント包装された小包を手にしたとして、そのきれいな包装のまま大事に部屋に安置しておくだけなら、そのプレゼントは本当の意味で届いていないのではないか?

 私たちは牧師の説教、聖書の言葉を確かに「ありがたく」いただく。しかし、いただいただけで満足していないだろうか? 実はそこからがスタートなのに!
 これを「解き明かし」と言う。私たちは聖書を「Holy Magic Word」にしてしまっては、もったいない。ちゃんとみことばを「解き明かす」ことこそ、「伝わる言葉で伝える福音」の第一歩なのである。

 次回は、さらに深く、「聖書の言葉の解き明かし」を考えていきたい。
 だんだん難解になってきましたか? 大丈夫です。できるだけ分かりやすく「解き明かし」ますから!(笑)