特集 神から始まる信仰

ウェスレアン・ホーリネス教団 境の谷めぐみ教会 牧師  舩津悠大

声なきことばの風景 岩手・沢内・Katasumi Life 表紙

新刊『366日ディボーション 神様から信仰を始めるために』
中村穣 著
A6判・392頁
定価1,870円(税込)

 中村穣牧師の新たなディボーション本『神様から信仰を始めるために』が、今冬出版されました。
 中村穣牧師の言葉には、多くのクリスチャンだけでなく、まだイエス様を知らない人たちをも惹きつける何かがあります。私もそれに魅せられた一人です。その言葉にはすべてを包み込むような神様の愛を感じる一方で、「何を言っているのかわからない」ことが多々あります。わからないのに惹きつけられる。なぜでしょうか。
 それは、神様が私たちに与えてくださった、目に見える「身体」と「心(精神)」の内奥にある、目に見えない「霊」の部分に響く言葉だからではないかと思います。
 今回のディボーション本を読むための補助線として、大ざっぱに言うと、この「霊」のことを本書では「霊魂」と表現しています(ほんとうは、もう少し深い概念です)。
 聖書が語る人間観
 「あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように」
 (Ⅰテサロニケ5・23)

 神様は私たち人間を「霊・たましい・からだ」を持つ存在として造られました。この聖句にある人間観に関しては、キリスト教の歴史の中でさまざまな解釈がされてきました。ここでは、「たましい」を「心(精神)」、「からだ」を目で見て触れる「身体」として捉えてみます。
 では、「霊」とは何か。それは神様が与えてくださった、今は目に見えない霊なる神様と繋がる部分です。この領域において、いわゆる「神様と出会う」ということや、「神様の御声を聞く」ということを体験していきます。
 しかし、啓蒙主義(「目に見えるもの」で世界を判断する価値観)以後の世界に生きる私たちは、「たましい・からだ」の領域に偏って生きているので、「霊」の領域のことがよくわからなくなってしまいました。このような現象は現代の教会、クリスチャンにも当てはまるかもしれません。教会では霊的なことが語られているようで、実際にはよくわからない、ということがあるのではないでしょうか。
 そんな、私たちが「わからないこと」を、中村牧師が何とか言葉にしてくださっている。私たちに馴染みない領域の話だからわかりにくいんですね。そして私たちは、その「よくわからない」けれども、何か大切で必要だと感じる「霊」の領域についての彼の言葉に惹きつけられていきます。
 中村牧師がよく使うキーワードがあります。今回のディボーション本のタイトルにもなっている「神様から信仰を始める」。これも、なんとなくわかりそうでわかりません。どういうことでしょうか。
 先日、哲学者である池田晶子さんと、ある宗教家が対話している動画を見かけました。その宗教家は、自分の内奥にどんどん入って行くことによって神と出会うんだ、というような話をされていました。そこに池田さんは鋭い指摘をします。
 「それは自分の頭で考えた神ではないですか? それはどこまでいっても自分であり、神ではないのではないですか?」
 私たちクリスチャンは聖書を通して、神様について知ることができます。また、神様が造ってくださった被造物を通しても神様について知ることができます。自分の経験、本や学校で学んできたことから「神様ってこんなお方」と言うことができます。
 でも、もしかしたら、そのように私たちの頭、先ほどの表現を使えば「たましい・からだ」の領域で「理解できた」と思っている神様は、私たちが作り上げた「偶像の神」かもしれません。中村穣牧師は、私たちをこのような「偶像の神」ではなく、「本当の神様」と出会うための道筋を指し示そうと試行錯誤します。「神様から信仰を始める」という言葉には、そのような思いが込められています。
 「傷」というキーワード
 中村牧師のもとには、教会で傷ついたクリスチャンが多く集っているそうです。教会で傷ついたなら、教会を離れ、クリスチャンであることさえやめてしまうのかなと思いきや、その人たちはそれでも何かを求め続け、中村牧師のもとにやってきます。
 それはきっと、「『あの教会』では傷ついたけど、『あの人の語る神様』にはつまずいたけど、『本当の神様』がおられるのではないか」という思いを、神様がその方々の「霊」に与えておられるからではないかと思います。
 時に、教会の中で、クリスチャン同士で、互いに傷つくこと、傷つけることがあります。上手くいかないことがあります。祈りが聞かれないように感じることがあります。
 今回のディボーション本の中でも、「傷」というキーワードが何度も出てきます。私たちはなるべく傷つかないため、うまく人生を歩むために信仰があると思っていないでしょうか。しかし、むしろそのような「傷」が、私たちを「本当の神様」へと向かわせます。
 傷つく、上手くいかない、思ったとおりにならない、というのは私の思いを超えることで、私の「外」から来ることです。傷つくこと、うまくいかないことは、不信仰の現れではありません。そのようなことが、私の頭の中ではなく、私たちを超えた存在であられる「本当の神様」と出会う「窓」となり得るのです。
 最後に『366日ディボーション 神様から信仰を始めるために』から一節引用して終わります。

 「神様から始まる信仰は、この世の中では弱いとされる、“傷つきやすい心”から始まります。自分は大丈夫だと思っている心からではないのです。ユダヤ人神学者レヴィナスは『傷つきやすい自己だけが隣人を愛することができる』と言っています。それは、傷つきやすい心には相手との間に壁がなく、相手の苦悩を共感できるからです。神様に対しても同じです。苦悩がなくなったら解決ではないのです。苦悩を取り除くのではなく、苦悩から始まる平和があることを信じる。痛みを取り除くのではなく、痛みから始まる希望があることを信じる。これが神様から始まる信仰なのです」
 (二八八ページより)
※エマニュエル・レヴィナス『エピステーメー〔II3〕』朝日出版社