ニャン次郎の哲学的冒険 人間社会を生き抜くための西洋哲学入門 第10回 「脱構築」世界を分ける線を消したデリダ
ニャン次郎(代筆・岡村直樹)
ニャン次郎(主猫公)
クリスチャンで大学生の飼い主を持つ茶トラ猫。哲学の授業で困っている飼い主を助けるため、歴史上の様々な哲学者に直接会って話を聞く旅に出ることに!
岡村直樹(代筆者)
ニャン次郎の代筆者。
東京基督教大学の先生で、出身校であるトリニティー神学校ではキリスト教哲学を専攻。
こんにちは! ニャン次郎です。
ボクの飼い主のお兄さんは、哲学の授業で聞いた「ポストモダン」の意味がよくわからず、とても困っています。そんなお兄さんのため、今回はフランスの哲学者、デリダ先生に会ってお話を聞いてきました。
デリダ先生は、北アフリカのフランス領アルジェリア(当時)のユダヤ系フランス人の家で一九三〇年に生まれました。ユダヤ人社会とフランス人社会の双方に馴染めず、孤独な青年期を過ごした先生は、学びのためにパリに出た後も、孤独の中でたくさんの哲学書を読みふけったそうです。哲学の教師資格を得た後、高等師範学校で哲学の講義を行いつつ、アメリカを頻繁に行き来して研究を深め、「脱構築」の哲学者として知られるようになりました。
「脱構築」には、それまで当たり前だと思っていたことについて、もう一度よく考え直してみようという意味があります。特にデリダ先生が気にしたのは、「二項対立」でした。それは、「善と悪」「男と女」「主観と客観」というように、物事を二つの正反対の要素にスパッと分けて考えることを指します。また「二項対立」は頻繁に、どちらかがより優れているという見方がされてしまうこともあり、デリダ先生はそれを危ういと考えました。
「デリダ先生! 先生は猫派ですか? それとも犬派ですか?」
「ニャン次郎くんを目の前にして、犬派とは言いづらいね」
「エッ? もしかして、先生は犬派なんですか?」
「いや、ニャン次郎くんを見ていると猫派のような気もするし、小さい時にわが家にいたワン次郎を思い出すと犬派かなあとも思うね。でも、ぼくは猫派か犬派かみたいなよくある分け方は、あまり意味がないと思うんだ。どちらかをより良いものとして考えるより、そこにある『かわいい』という共通点や、『癒やしの存在』として重なり合う部分を見つめることが大切で、そのようなものの見方を『脱構築』って言うんだよ!」
デリダ先生は、文化や神話は「生と死」「内と外」といった見えない対立構造が起源となって発生したと考えたレヴィ=ストロース先生への批判でも有名です。デリダ先生は、対立するように見えるそれらの構造は、実は固定されておらず、また対立の間に明確な線引きもできない。なぜなら、そこにある「意味」にはつねにズレが生まれ、先ほどの「猫派か犬派か」のように入れ替わるからだと考えました。
デリダ先生のこのような考え方は、ポストモダン思想(近代以降の思想)として広がり、現在に至っています。近代とは、「真理は一つだ!」「理性で世界を説明できる!」「人類は進歩する!」といった考えが強く信じられていた時代です。それらは「大きな物語」と言われたりします。ポストモダンの思想では、正しさや意味は固定されたものではなく、状況や立場によって変わるとします。それは、「一つの見方では世界を説明できない」という多様性を認める考え方で、「たくさんの小さな物語によって世界は成り立っている」と表現されたりします。
多様性を大事にする姿勢そのものは、「たまものの多様性」(Ⅰコリント一二章)や、「人種や性別を超えた共同体」(ガラテヤ三章)といった形で、聖書の中でも教えられています。でも同時に、「聖書の神が唯一の真理である」という信仰に立つクリスチャンにとって、ポストモダンの世界観は大きなチャレンジとなります。この世界観では「文化や社会によって真理は異なる」と考えるため、「イエス様だけが救いの道」というキリスト教のメッセージが、「他の考えを否定している」と受け取られることがあるからです。また、「絶対的な基準はない」という考え方は、「神のことばのみが人生の基準である」という信仰とぶつかってしまいますから困りますね。
ということで、「猫派」のお兄さんには、ニャンコもワンコもそれぞれかわいいという、デリダ先生の結論を伝えたいと思います。次回は、実用主義を説いたアメリカのローティー先生からお話を聞きます。ニャン次郎でした。