連載 伝わる言葉で伝える福音 第10回 「永遠のいのち」ってナニ?

青木保憲
1968年愛知県生まれ。小学校教員を経て牧師を志す。グレース宣教会牧師、同志社大学嘱託講師。映画と教会での説教をこよなく愛する、一男二女の父。

 

「先生、僕が教会に通うメリットって何ですか?」
今から一年半ほど前のこと。とある牧師が自分の教会に通っている大学生から受けた質問である。
牧師や長年のクリスチャンがまず思いつく回答は、次のようなものだろう。
「メリットなんか求めて教会に来るな! そういうことじゃないんだ!」
この牧師も最初はそう思ったらしい。しかし、ふと思いとどまり、こう考えたという。
「私たちクリスチャンは、あまりにも彼岸的なこと(いわゆる霊的な恵み)ばかりを語ってこなかったか? たとえば、『教会に来たら真の救いが与えられる』とか、『永遠のいのちを受ける特権がある』など……。
しかし、その中身を語るべきではないか? つまり、もっと此岸的なこと(具体的かつ現実世界で実感できる恵み)を語るべきではないか?」
アーメンである!
今回は「教会で与えられる最大の恵み」として右に出るものはない「永遠のいのち」について考えてみたい。

 

私たちクリスチャンは、イエス・キリストを信じて罪赦された時、「永遠のいのち」なるものをいただく。
では、ひるがえって「永遠のいのち」とは何か? それは、私たちの肉体が滅びても天国で永遠に安らぎを得る、この確証が「永遠のいのち」である。しかし、これでは伝わらない。あまりにもリアリティがない。
ここで補助的に用いるのが、先ほどの「教会に来るメリットは?」という質問である。つまり本当に「永遠のいのち」をいただくことが恵み(メリット)であるなら、それを私たちは生活の中で実感できるはずだからである。
このことに改めて目が開かれたのは、数年前の梅雨真っただ中の水曜日の朝であった。寝汗をかいて目を覚ました私は、ふとその日の予定に思いを馳せた。しかし、何も特別なことはない。これという楽しみも思い至らない。本来なら、それでどんよりとした気持ちで体を起こすはずである。しかし、その時の私はそうではなかった。心がワクワクしていたのである。ワクワクする理由は? と問われても、何もない。それは「根拠なきワクワク感」とでも表現するしかないものだった。
普通、人がワクワクするのは、楽しいことが待っているとか、望みどおりの結果を得たとか、根拠となる出来事(対象)がはっきりしている場合である。しかし、この時の私には、ワクワク感を生み出す具体的な事例がまったく思い当たらなかった。
にもかかわらず、確かに喜びとワクワク感があった。否、今もあり続けているのだ。この「根拠なきワクワク感」こそ、「永遠のいのち」を得た者の姿である。
あなたは自分が遭遇する出来事に一喜一憂し、アップダウンの激しい人生を歩みたいだろうか? それとも、それらに支配されない安定的なワクワク感を持って生きたいだろうか?
もし後者であるなら、あなたは「永遠のいのち」を求めていることになる。どんな出来事に遭遇しても、決して誰にも奪われないワクワク感があるなら、安定的にこの世界を生きることができる。
先ほどの大学生の問いに、もし私が回答するなら、こうなるだろう。「教会に来るメリット、それはあなたが『根拠のないワクワク感』を毎日感じながら生きられることである」と。
聖書が語る、創造主なる神が私たちに与えてくれる「永遠のいのち」とは、そんな「根拠のないワクワク感」にほかならない。これは、死後に天国で与えられるものではない。今、この瞬間に実感できる「生きる喜び」である。
「永遠のいのち」ってナニ? と問われるなら、「根拠のないワクワク感」と答えよう。