連載 神への賛美 第8回 ヨハネの福音書と賛美(2)

向日かおり むかひ・かおり
ピュアな歌声を持つゴスペルシンガー。代々のクリスチャンホームに育つ。大阪教育大学声楽科卒業、同校専攻科修了。クラシックからポップス、ゴスペルまで、幅の広いレパートリーを持つ。国内外で賛美活動を展開している。

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3・16)
ほのかな灯、それとも差し込む月の光の下だったでしょうか。ある静かな夜、イエス様とその老人は語り合っていました。老人はニコデモという人で、パリサイ人でユダヤ教の議員、イエス様とは立場を異にする人でした。夜、彼がイエス様のところに訪れたのは、人目をはばかったのかもしれません。でも、ニコデモは真摯にイエス様と対話したかったのだと思います。
「神様は愛です。本当にこの世界を愛していますよ。」
けれども、その時のニコデモには、後に続く「御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つ」ということばを理解することはできなかったでしょう。
「御霊によって新しく生まれる」とか、「わたしは天から来た」とか、途方もないことを言うその人は、不思議な人でした。さっぱりわからないまま、ニコデモはその場を後にしたと思います。
後にニコデモは、イエス様が十字架刑に処せられた現場にいました。多くの弟子たちが恐怖で散り散りに逃げてしまっても。彼はたいへん高価な没もつ薬やくと沈じん香こうを携え、葬りのために亜麻布でご遺体を巻きました。「与えられたひとり子」を、文字どおりその手に抱いたのです。
イエスのその姿は、限りなく見捨てられた姿だったことでしょう。多くの人々が期待するメシアの姿とはかけ離れた、絶望で終わったかに見える、惨めで陰惨な一介の死体。けれどニコデモにとって、それは抱く価値があったのです。
ニコデモがどうして我が身の危険を顧みず、十字架のそばにいられたのかわかりませんが、彼の中に愛のことばが深く生きていたと思われます。イエス様は、ご自分に対して敵意を抱くパリサイ人の中の、たったひとりの人物に、これさえわかれば聖書がわかるとも言われる、このヨハネ3章16節、最高の福音を知らせたのです。
私は若い頃、自分自身に絶望したことがあります。心の手がなくなってしまって、愛を受け止めることができない。それが絶望だと感じた時、消えてしまおうとスイスの山にまで行きました。しかし死が目前に迫り、真っ暗な闇に飲み込まれた時、私は無我夢中で手を伸ばして叫んでいました。「愛を下さい! いのちを下さい!」 なくなったと思った「心の手」を伸ばし。
真実の愛と出会う時というのは、心躍る幸せな時ばかりでなく、目を背けたくなる絶望や、闇の中だったりします。でも、ニコデモはイエスと対話した夜、すべては理解できなくとも、かつて感じたことのない愛を、全身をもって感じていたのだと思います。
愛、それは響きます。愛、それは人を生かします。生き返らせます。絶望の中の光です。無情の中のいのちです。何をもってしても、愛がなければすべては虚しい。しかし愛があるところに、人は何も顧みずに立つことができるようになるのではないでしょうか。
賛美は、愛です。愛の神様に対する愛の応答です。生きた愛が魂に響き、魂が震える。その響きが、今度は外に向かってあふれ出すのです。神様に。そして世界に。
閉ざされていた私の魂も砕かれ、心の壁が崩れ、光に目が開かれる経験をしました。世界には大きな神様が満ちておられ、私たちはその神様の中に生かされていると。
私たちはその方を賛美する。感動で。喜びで。感謝で。言葉にならない、生きた、終わらない情熱で。
生きた神様を知った時、終わらないいのちが自分を突き動かすことを知りました。もはや自分ではないと言えるいのちです。まず神様が愛してくださった。私たちはその大きな愛の中で、限りなく賛美をささげるのです。
墓に葬られたイエス・キリストは、三日後に大きな勝利を現します。復活という永遠のいのちを。その時ニコデモは、大きな感嘆の声を上げたことでしょう! そして自分が抱いた悲しい骸むくろが、永遠のいのちに変わった衝撃と、天の父の愛の意味を、真に知ることとなったでしょう。その衝撃は、福音として響きわたり、全世界を揺るがせることとなるのです。
その時わからなくてもいいのです。でも愛が響いたなら、手を伸ばして受け取れる。初めから、今も、そして永遠に、「神様は愛」です。