連載 神への賛美 第6回 「主の祈り」に見る賛美の恵み(6)

向日かおり むかひ・かおり
ピュアな歌声を持つゴスペルシンガー。代々のクリスチャンホームに育つ。大阪教育大学声楽科卒業、同校専攻科修了。クラシック仕込みの幅広い音域を持ち、クラシックからポップス、ゴスペルまで、幅の広いレパートリーを持つ。

 

イエス様が教えてくださった「主の祈り」。汲めども尽きぬこの祈りの素晴らしさの中に、私たちは、神様を賛美する恵みもたくさんいただいてきました。
今回は、最後の一文に目を留めてまいりましょう。
「我らを試みに遭わせず
悪より救いいだしたまえ」
ああ、そうです。「悪」からお救いください。私たちはなぜ「悪」と聞くと、瞬間的に嫌悪感や激しい忌避感を抱くのでしょう。
エデンの園の時代。最初に創られた人類アダムとエバは、蛇、すなわちサタンの誘惑に遭い、善悪を知る木の実を食べてしまった。ここから世界に罪が入り、人は死ぬものとなりました。悪を嫌悪する感情は、私たちの中に反射的に起こります。それは、悪は死をもたらし、また魂の滅びに導くものだと、霊的に、即時的に感じるからだと思います。
その死を滅ぼしたのは、「主」です。イエス様の十字架と血潮、死と復活です。
十字架に向かわれる前、イエス様と弟子たちは「賛美して」オリーブ山に行きました。受難の前に賛美。試練が間近に迫る時こそ、賛美して立ち向かうことを、主は教えてくれています。
しかし、ゲツセマネの園での祈りの場では、弟子たちは眠ってしまいました。「誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」(ルカ22・46)と言われてもです。胸が痛い。でも、誘惑に負ける。それが人間の本性、弱さです。
「試み」に人間はずっとさらされ、負け続けてきました。しかしイエス様のほうはいつも勝ち続け、ついには十字架の御業によって、罪と死の原理から私たちを解放。負けるしかなかった私たちに勝利を与えてくださったのです。
「試みに遭わせないでください」と祈れる恵みがあります。「病気から守ってください」「金銭的なトラブル、性的誘惑からお守りください」……
しかし、さらにもっと深い誘惑は、魂を深刻な滅びに導くものです。「お前は負けだ」「どうせお前はだめだ」「本来お前はもっといい目にあうはずだったのに」「イエスなんて、神なんて」……。本当に危険なのは、試みの中に聞こえてくるサタンの声。私たちが「試みに遭わせないで」と真に祈るべきは、このサタンの声に対してなのだと思います。
しかし実はサタンはもう負けていて、自分の側に私たちを引き込みたいだけなのです。
目を天へ。天のお父様へ。私たちは赦されて、もう天に座るものとされた。父なる神を賛美し、誘惑の声ではなくて主のみこころを抱くのです。いかなるものも、キリストの愛から私たちを離すことはできません。
天に昇られたイエス様は、再び地に来られ、サタンを完全に滅ぼすことを約束しておられます。エデンから始まった人類の敗北は、黙示録において主の完全勝利。壮大なHis Story、主の大きなヒストリーの中に私たちは生かされていて、さらに霊の目を覚まされ、日々、より高い祈りへ、賛美へ、導かれていくのです。
私たちがサタンに勝利していく時、賛美は本当に素晴らしい力です。
「主よ 私たちの主よ
あなたの御名は全地にわたり
なんと力に満ちていることでしょう。
あなたのご威光は天でたたえられています。
幼子たち 乳飲み子たちの口を通して
あなたは御力を打ち立てられました。
あなたに敵対する者に応えるため
復讐する敵を鎮めるために。」(詩篇8・1〜2)
ヨシャファテ王が敵に攻められた時、賛美する者たちは、先頭に立ち、敵の前で主をたたえました。黙示録においては、サタンに勝利する主に、天で爆発的な賛美がささげられている情景が描かれています。私たちは賛美しながら、この主の勝利を歩むのです。戦われるのは主。私たちはその勝利の中、喜びの賛美をささげるのです。
さあ、賛美しましょう! 賛美を住まいとされる方に。勝利の主に。素晴らしい方、王の王、主の主!! あふれる主への喜びの賛美は、尽きることはありません!!
勝ち取られた永遠のいのちを受け、私たちは終わらない賛美をささげるのです。主のみそばで!
「しかし 私たちは主をほめたたえる。
今よりとこしえに至るまで。
ハレルヤ。」(詩篇115・18)