特集 〝支えられる〟という恵み そこに「いてくれる」だけで、存在する恵み
助けてもらうことに感じてしまう、「申し訳ない」という思いは、人との関係だけでなく、神様との関係も不自由にしてはいないか。支え、支えられるお互いについて、考えてみたい―
МACF牧師・カウンセラー 関根一夫
この春に出版された『ぼくを忘れていくきみと~アルツハイマー病の妻と生きる幸せ』(吉田晋悟著)を、深い感動とともに読ませていただきました。
この本には、六十三歳で若年性認知症となられた奥様と共に歩んだ著者の、十八年の歩みが綴られています。
奥様の「神様に愛されている私」「私は私として生きていきたい」という願いを、しっかり受け止めて介護にあたってきた著者の姿勢と葛藤、そして自己省察の日々の記録は、信仰者として聖書からの言葉を光に一歩一歩丁寧に辿られた、貴重な証しだと思いました。
奥様は介護を受けながらも、思いがけず、「ごめんね」「私なんか生きていても仕方がない」とか、「私が死んだら、お父さんは喜ぶでしょうね」とか、「ロープをどこにかけたらよいだろう」などと、聞こえよがしに発言してしまっていた時期があったとのこと。
その背後にある奥様の心の叫び、あるいは不安はどういうものだったのだろうと思いつつ、著者が悲しみを通り越して腹立たしくなると告白している状況に、心が揺さぶられる思いがしました。
認知症の方は、身体能力は低下し、忘れることも多くなっていきますが、自分が誰なのかということについての「プライドと感情」は、とても鮮明です。つまり、「私が私として存在したい」という意識は強くなっていきます。認知症が進んでも、その方の名前を丁寧にお呼びすると、「はい」と答えられます。自分がわかっているので、相手にどのように受け止められているか、とても敏感に反応されます。
プライドも明確なので、遠慮や場をわきまえる発言などはだんだん失せていき、その時々に正直に「自分の思いや感情」を表明します。
『ぼくを忘れていくきみと』の著者が、自分には自信がないけれど、神様が味方となって共に担ってくださるということに気づかれたことは、奥様にとっても著者にとっても、本当に大きな恵みを味わう一歩だったと思います。
奥様に対して、「私は私のまま」存在することを大切なことだと認められるようになっていくプロセスは、ご主人の中に「いてくれてありがとう」の心が育っていくプロセスだったのではないかと思います。
「支える会」「ネットでの反応」などは、本当に大きな支えになったと思います。つまり、介護者であるご主人も、支えられる側面が必要だと意識できた時から、前向きな姿勢が保たれたのではないかと思うのです。
私たちには、常に「関係的充足欲求」というのがあって、私が私でいることを全否定されない関係を必要としています。それを味わえることで幸福感を維持することができると言われています。
聞いてくれる人がいる、受け止めてくれる人がいる―支えられる恵みがそこにあります。
ところが「関係を維持する」ために、何かできるようにならなければいけないのではないか、とか、こんなことを言ったら相手に迷惑をかけるのではないかと萎縮し、何かを「お返しする」方向性にとらわれてしまっている場合が多いのではないでしょうか。
つまり、やってもらう人ではなく、やってあげる人になれないと、関係的には祝福は得られないのではないかという発想が、根強く私たちの心に育っているように感じます。
日本には独特の「お返し」の文化もありますから、何かをお返しして意識的に対等でいないと、安心できないような雰囲気があるのかもしれません。
関係の維持も含めて、「受ける幸い」を、もう少し正直に「ありがとう」の言葉や笑顔で表明できたらよいですね。
「支えられる恵み」には、善意をそのまま受け止め、受け取ってよいのだという自覚が必要ですね。神様に対しても、人に対しても「お返し意識」が強すぎると、とても不自由な関係になっていきます。素直に「ありがとうございます」と受け止め、受け入れることで恵みが深まっていくのだと思います。
「受ける幸い」は物質的な支援を受けるということだけでなく、「味方がいてくれる」ことを知る幸いでもあります。
もうずいぶん昔の話になりますが、ビーグル犬を飼っていたことがあります。トミーという名前でした。
風の強い冬の朝のこと、トミーとの散歩の道の途中、近くの畑の周りに設置されていたネットが外れて、道路に敷かれたような状況になっていました。ちょっとよそ見をしながら歩いていたら、そのネットが足に引っかかってしまい、私はよろけて、身体全体が道に投げ出されるように転倒しました。
トミーを引っ張っていたリードも手から離してしまい、トミーがどこかに走って行ってしまうのではないかと心配になりました。「痛い~」と声を出してしばらく倒れたままでいると、なんと我が家のトミーが尻尾を振りながら近づいてきて、私の顔をぺろぺろ舐めてくれたのです。「お父さん、大丈夫?」とでも言いたそうな表情で、私から離れるどころか近づいて顔を舐めてくれたのです。
私は素直に喜びました。「トミー、いてくれてありがとうね」と声をかけました。しみじみ嬉しく思いました。犬からでも「支えられていることの恵み」を受け取ることができますね。
以前、こんな歌詞を書きました。認知症の方々が一番家族に伝えたい思いはこれかもしれない、と感じながら書きました。でも、ご家族に聞いたら、「当初は大変でしたが、今は私もまったく同じ思いをもっています」と答えてくださいました。
「いてくれてありがとう」
いてくれてありがとう
こんな私と一緒に
いてくれてありがとう
あなたのほほえみ
言い尽くせない 感謝をこめて
いてくれてありがとう
いてくれてありがとう
涙流した時にも
いてくれてありがとう
あなたの励まし
言い尽くせない 感謝を込めて
いてくれてありがとう