伝わる言葉で伝える福音 第20回

「己を語れ!」

青木保憲
1968年愛知県生まれ。小学校教員を経て牧師を志す。グレース宣教会牧師、同志社大学嘱託講師。映画と教会での説教をこよなく愛する、一男二女の父。


私は説教を批評してもらうのが好きである。だが、神学校を卒業してからというもの、なかなか「説教批評」に出くわすことがない。
卒業当初は「これで他人からあれこれ言われなくなるから、楽になる」と思っていた。しかし実際に牧会の現場に出たとき、その考え方がいかに愚かで、牧会にそぐわないものであるかを痛感させられる。
「今日のたとえは、聴衆にちゃんとポイントを指し示すものだっただろうか?」
「初めて教会に来られた○○さんに、どの程度伝わっただろうか?」
そんな疑問が湧いてきても、誰にも尋ねることができない。たとえ尋ねたとしても、大人である教会の皆さんは「恵まれました」と答えるに違いない。だってそれが「牧師と信徒の健全な関係」だから……。
毎回の説教が「本番」で一発勝負。そして客観的に良かったのか悪かったのか、その基準すら分からない。そんな状態がいつまで続くかも分からないまま。それでもただ聖書とその背後におられる神様だけを信頼して語り続けなければならない。そういった状況に自分が置かれていることに気づかされた時以来、私は説教を批評してもらう機会を求めるようになっていった。

そんなある日のこと。若者に届く説教者として定評のある一人の牧師を講師に招いて「説教塾」が開催された。私はその方に説教を聞いていただき、講評してもらう機会を得た。
やり方はこうである。あらかじめ決められた説教者(この場合は私)が十五分程度の説教を語る。語り終えた後、間髪入れずにこのイベントに参加した複数の方に感じたことを率直に話してもらう。そして最後に講師の先生がまとめて講評する。とてもシンプルなスタイルである。
私は聖書の講解から始めて、登場人物への心理学的なアプローチ、そしてお気に入りのサブカルチャー(マンガとアニメ)を用いてのメッセージポイントまで、十五分間一生懸命に語らせてもらった。自分としてはもはや一つの「型」となった定番のメッセージであった。つまり、ちょっと自信があったのである。
講評の中で先生は、次のように批評してくださった。
「青木先生、メッセージの骨格や流れはとても良かったと思います。分かりやすかったし、理解しやすかったと思います。でも最後のメッセージポイントで、アニメキャラの例を用いましたね? あれは正直、いただけなかった。伝えたいポイントは言葉としては伝わります。でも、相手の心に伝わるためには、分かりやすさだけではダメなんです。」
そして先生は、私のその後の説教者人生を方向づける決定的なコメントをくださった。
「どうして先生は自分の体験を語ろうとなさらなかったのですか? 己をさらけだす以上に相手に伝わる言葉はありませんよ。」

ここに私たちが陥りやすい過ちがある。福音を伝えるとき、私たちは「分かりやすさ」を求めてしまう。よくあるのが有名なクリスチャンのエピソードや、人気スポーツ選手の逸話、時には(私がしたように)マンガやアニメ、映画などのキャラを用いることである。確かにそれで「分かりやすく」はなる。しかし分かりやすさを工夫することで、福音が相手の心に届くかというと、決してそうではない。
福音の中身を理解してもらうには、分かりやすさは譲れない。しかし、福音を受け止めてもらうためには、語る側が「分かりやすさ」を越えることが求められる。それは、語り部の「体験を通して紡ぎ出される言葉」にしかできない働きとなる。己の胸襟を開き、肚を割り、そして語り始めることでしか、伝わらない物語(ナラティブ)があるのだ。
次回、この語られた物語(ナラティブ)についてもう少し考えていこう。