キリストの弟子ってなんなん? 5
~的外れから的を射た歩みへ~
久保木聡(日本ナザレン教団大阪桃谷教会牧師)
1972年福岡県生まれ。非暴力コミュニケーション(NVC)の講師としても活躍中。著書に『オカリナ牧師の聖書ゆるり散歩』(いのちのことば社)など。
「こんな上司のもとで、もう働きたくない! いちいち細かい要求なんて聞いてられるか!」
そう思って、会社を辞めて、フリーランスになった人がいたとします。「あ~、これであの面倒くさい上司もいないから、好きに働けるぞ~!」と思いきや、顧客から仕事内容に関して、細かな要求が出て、それに対応し始めます。そして気づくのです。「会社を辞めて自由になったと思ったら、結局、上司からの細かい要求が顧客からのものに変わっただけだった!」と。
フリーランスになったからと言って、全く自由になるわけではありません。対価を払いたくなるだけの仕事の結果を出し続けなければ、仕事の依頼はなくなるわけですから、顧客の要求に応え続ける必要があります。会社員のほうが、苦手な仕事は別の部署が引き受けてくれていて、得意な仕事に専念でき、かえって自由に働けるケースだってあります。どの自由を選び取るのか、それはわたしたちの選択次第、とも言えます。
「自立とは依存先を増やすこと」と言われます。人が子どもから大人になるにつれて、自立するとは言っても、誰にも頼らなくなるわけではありません。親という大きな依存先から離れていく中、職場、お店、行政のサービス、友人などいろんな依存先を増やすことで自立していくのです。〝とある依存先〟がわたしを束縛するのなら、距離をとったり、他の依存先に上手に移行したりしていくことによって、自由を得ていくことになります。先のフリーランスの話で言うなら、どういう会社や上司を依存先とするのか、どういう顧客を依存先とするのか、それらを選び取りながら、〝わたしなりの自由〟を生きていくことになるのです。
キリストの弟子とは、キリストに大きく依存する生き方と言えますが、先に(二〇二六年五月号の本連載にて)お伝えしたように、自分に正直であるために、また、今はそれを行うには未熟であるために、キリストにすら「いやです」と伝えられる関係を生きます。「自分にウソをついて、この人に媚びを売らなければ生きていけない!」というような依存先に身をゆだね続ける生き方ではありません。ウソをつかないまま、自分を受け入れてくれるいろいろな依存先と一緒に感謝しつつ生きていき、必要に応じて助け合う……。それを目指すのがキリストの弟子としての歩みです。
何か一つのことにのめり込み、依存しきって、その奴隷のようになることがあります。アルコール依存やギャンブル依存もその一例です。そうでなくても、誰かの顔色を伺い続け、その人に大きく依存し続ける奴隷状態になることも起こりえます。本来、キリストに信頼するなら、三六〇度いろいろな小さな依存先から必要が満たされ、自由で安心できる歩みになるのに、それからズレてしまっている、的外れになってしまっている……。罪とはギリシア語やヘブル語では「的外れ」という意味ですが、そのような現実を生きていることになります。
キリストを信じ、キリストの弟子となる、というのは、依存先の再調整をし、自由を生きていく……つまり的外れではなく的を射た歩みを目指すことなのです。
考えてみよう!
①あなたの周囲に、自分が正直でいられる小さな依存先がいくつありますか。
②自分にウソをつかないといけない依存先はありますか。他に依存先を見つけるとしたら、どんな選択肢がありますか。