特集 日本のナイチンゲール・大関和

女子学院中学校・高等学校 資料室 佐藤 裕理絵

大関和と看護婦養成所

 大関和は、女子学院の前身の一つである桜井女学校の中に設けられた看護婦養成所の第一期生です。 正式には女子学院の卒業生ではないのですが、本校と深く関係を持っていました。卒業生が思い出の文章を寄せている『女子学院五十年史及学窓回想録』にも寄稿しています。
 連続テレビ小説のヒロインのモデルとして取り上げられるまで和のことを知らなかった、という声をよく聞きます。本校では、創立記念日の前に中学一年生に学校史をレクチャーし、マリア・ツルーの興した事業の一つとして看護婦養成所を取り上げています。ツルーは宣教師であり、女子学院の創設に大きく貢献した教師で、資料室にいただく問い合わせの中で二番目に多いのが「ツルーと看護婦養成所について」です。看護史の研究者等から定期的に問い合わせや画像提供の依頼をいただくため、看護師のパイオニアともいうべき人物が本校の関係者にいるという認識はしていましたが、ドラマをきっかけに様々な資料にあたるまで、こんなに魅力的な人だったとは知りませんでした。
 ちなみに、本校にいただく問い合わせで最も多いのは、初代院長の矢嶋楫子です。和が養成所に在籍していた時には桜井女学校の校長を務めており、楫子が初代会頭を務めた日本キリスト教婦人矯風会(*1)に和も参加するなど、生涯を通じて親交があったと思われます。

女性が働くということ

 和がドラマのヒロインのモデルとして注目されて、女性が働くことについて改めて考えています。コロナ禍で、「エッセンシャルワーカー」という言葉が一般的になりましたが、医療・介護・福祉など誰かをケアする仕事は社会機能を維持する上で不可欠であるにもかかわらず、賃金が低く重労働で離職率が高い傾向があります。そしてこれらの仕事に従事する多くが女性です。
 そもそも「トレインド・ナース」(*2)養成事業の創成期の人々も、看護は女性に向いている仕事である、と考えていました。当時は様々な理由や状況によって女性が労働市場から閉め出されているような状態であり、女性が手に職をつけて自活していくための場所をつくることが急務、とマリア・ツルーや矢嶋楫子は考えていました。現在は病院には調理や清掃のためのスタッフがいるものですが、当時の看護婦は栄養がある食事を用意したり、回復を助けるために衛生を保つことも職務の範囲内とされていました。そういった意味で、当時の人々が女性の働く場として看護職を受け入れやすかったのは想像に難くありません。
 和が活躍していた時代と比べてジェンダー分業的な価値観は徐々に薄れつつありますが、人に直接触れてケアをする仕事、職務内容が家事に準ずる仕事は、資格の有無に関わらず、現代でもその価値を低く見積もられがちなように思います。私たちの誰もが健康的な生活を送るために支えてくれる職業があることが意識され、その人たちの待遇が見直されることで、皆がより良く暮らせる社会になると考えます。

伝道者としての和

 和は看護婦だけでなく、キリスト教の伝道者という顔も持っていました。公共放送のため、ドラマでは詳しくは描かれないようです。和のクリスチャンとしての一面を是非とも紹介したく、三月より学校のホームページで特設サイトを公開しています。
 女子学院はキリスト教を教育の基盤とし、神と人に仕える心を持って生きる人を育てることを指針としてきました。生徒たちには、神様から与えられた賜物を磨き、他者のために働いた大関和という先輩がいたことを知って、何かを感じてもらいたいと思っています。
*1 キリスト教主義の女性団体
*2 明治時代に西洋式の専門教育と訓練を受けた、日本で最初期の看護婦のこと


大関和
(おおぜき・ちか 1858~1932)
下野国黒羽藩(現・栃木県大田原市)に士族の娘として生まれる。結婚と離婚を経て、キリスト教に出合い、看護の道へ進むことを決心。新しい西洋式の看護学を学び、看護婦の一人として、専門職としての看護の礎を築いた。また、看護のみならず廃娼運動など社会活動にも邁進し、時代の波風に大きく揺さぶられながらも、もちまえの明るさ強さ、深い愛のエネルギーによって多くの人の病と心に寄り添った。

女子学院の特設サイトはこちらでご覧いただけます⇒https://www.joshigakuin.ed.jp/ozekichika_specialsite/