キリストの弟子って何なん? 2

~「いやです」は正直さという贈りもの~

久保木聡 日本ナザレン教団 大阪桃谷教会 牧師
1972年福岡県生まれ。オカリナ奏者として各地で演奏。非暴力コミュニケーション(NVC)の講師としても活躍中。著書に『オカリナ牧師の聖書ゆるり散歩』(いのちのことば社)など。


 「キリストからの命令に『いやです』と言っていい」
 という言葉を聞いたら、どう思いますか。「そうだ!  そうだ!」という人もいるかもですが、「いや、待って。それってだいじょうぶなの?」と思うクリスチャンも結構いるでしょう。
 キリストって、自分が伝えた言葉に圧をかけて無理やり従わせようとする方なんでしょうか?
 放蕩息子のたとえ話の後半で、弟息子の帰宅のあと、「兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた」(ルカ15・28)と描写します。弟が帰ってきた喜びゆえの宴会を始めている家の中に、父親は兄にも入ってきてほしいのですが、兄は入ろうとしません。兄が「いやです」と言う中、父は立ち尽くし、ただ待ち望みます。
 キリストはこの父親のようです。わたしたちが神の言葉に従わず、「いやです」と何度言おうと、あなたの前に立ち尽くし、共におられます。
 マタイの福音書21章28~31節に、キリストによるこんなたとえがあります。
 「ところで、あなたがたはどう思いますか。ある人に息子が二人いた。その人は兄のところに来て、『子よ、今日、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。兄は『行きたくありません』(直訳すると『いやです』)と答えたが、後になって思い直し、出かけて行った。その人は弟のところに来て、同じように言った。弟は『行きます、お父さん』と答えたが、行かなかった。二人のうちのどちらが父の願ったとおりにしたでしょうか。」彼らは言った。「兄です。」(後略)
 信仰生活とはこの兄のように「いやです」と答えてから、後で考え直して出かけるまでの間を生きているのです。夫婦や親子関係で「いやです」が言えないと、どちらかが支配されているかもしれません。教会で「いやです」と言えないとカルト的なにおいがします。
 わたしが何かをお願いして、「いやです」と言われたら、「正直に伝えてくれて、ありがとう」と応えます。「いやです」にこめられた正直さを贈りものとして受け取りたいのです。無理やり感や強制感のある関係は作りたくありません。そんな関係では心がすり減っていきますし、その人のために真心を込めて何かをすることが難しくなります。
 わたしはキリストに対してやりたくないことは「いやです」と伝えることを大事にしています。それは、わたしが自分にウソをついて従うことよりも、わたしの正直さをキリストが大切に受け入れてくださると信じているからです。わたしの正直さをどこまでも受け入れてくださるからこそ、キリストに、最高のものをささげたいのです。無理やり従わないといけない相手なら、合格点ぎりぎりのやっつけ仕事でごまかすでしょう。
 キリストの弟子として歩むとは、窮屈なイエスマンになることではありません。わたしの正直さをどこまでも受け入れていただけることに腰を抜かすほど驚きながら、キリストについていく歩みなのです。

 考えてみよう!
 ①教会で「いやです」と言えなくて、心がすり減った経験はありますか?
 ②「『いやです』は正直さという贈りもの」と聞いて、どんな印象を持ちましたか?