新連載 キリストの弟子って何なん? 1
~キリストの弟子は自由へと向かう~
久保木聡 日本ナザレン教団 大阪桃谷教会 牧師
1972年福岡県生まれ。オカリナ奏者として各地で演奏。非暴力コミュニケーション(NVC)の講師としても活躍中。著書に『オカリナ牧師の聖書ゆるり散歩』(いのちのことば社)など。
「わたしはキリストの弟子です」と名乗れる人はどれくらいいるのでしょう?
毎週、熱心に欠かさず礼拝に集う人でも、「わたしはクリスチャンです」と言えても、自分がキリストの弟子であることは自称しづらいケースは結構あるようです。「クリスチャンであることはイコール、キリストの弟子ということですよ」と伝えても、自分はキリストの弟子であると公言することをためらうのです。
日本では、落語や寿司職人など、かつてはいろんな世界に弟子入りの世界がありました。働き方改革が進み、仕事とプライベートをはっきり切り分けることを大切にする現代です。それに対し、師匠の家に住み込み、仕事とプライベートの境界線もあいまいで、落語や寿司の実技・稽古よりも身の回りの世話ばかりに多くの時間を割かなくちゃいけない。それに加えて、師匠や兄弟子から理不尽な要求をされる……弟子にはそんなネガティブなイメージがあるのかもしれません。
弟子である自覚に立つと、いつも稽古して磨き続けていかなければならない……そんな思いもあるのでしょうか。教会に行くのも、なんだか窮屈に感じてしまうのかもしれません。
かつて幼児向けの説教で、王であるキリストを伝えるために「やさしい王様と厳しい王様とどっちがいい?」と質問したことがあります。子どもたちの返事は「どっちもイヤ!」でした。よくよく考えてみれば、「誰かが自分の王様であるより、自分が王様でありたいのが人間なんだから、そりゃそうだな」と妙に納得したことがあります。自分に師匠がいて、その弟子であるよりも、自分が師匠で、周囲が自分の言うことを聞いてくれるほうが、わたしたちは心地よいのです。
ただ、自分が王様のように生きていきたいと思っても、実際には周囲の目が気になり、好き勝手な生き方にブレーキをかけてしまいます。師匠が自分だと自由かと思いきや、弟子のリアクションを見て、意外に不自由なことを実感することでしょう。弟子も大変かもしれませんが、王様や師匠だって大変なんです。
誰の言葉、誰のまなざしを第一に生きているのでしょうか。自分を王様にしようとしまいと、結局、周囲の誰かの言葉や視線が気になって、、不自由になっているかもしれません。場合によって自分にかけ続ける言葉で身動きできなくなることだってあります。
キリストの弟子になる、というのは、キリストの言葉、キリストのまなざしを中心にする、というライフスタイルへの転換です。Aさんがわたしに悪口を言っていたとしても、世界にいる何十億人の一人が言ったに過ぎませんし、今後に生かすことがあるならそれだけを大事にして、キリストの言葉を中心にします。Bさんが見下す目で見てきても、キリストの温かいまなざしを中心にします。つらい気持ちはキリストに正直に吐き出し、すべてを受け止めてもらいます。誰かの言葉、視線におどおどする日々から自由になり始めていく……それがキリストの弟子としての歩みです。「真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8・32)。そう、それは自由への旅なんです。