伝わる言葉で伝える福音 第16回

「聖書はHoly Magic Wordか?」1

青木保憲
1968年愛知県生まれ。小学校教員を経て牧師を志す。グレース宣教会牧師、同志社大学嘱託講師。映画と教会での説教をこよなく愛する、一男二女の父。


日本が誇る宮崎駿アニメの中に、「天空の城ラピュタ」という冒険活劇がある。かつて「未来少年コナン」で当時の若者たちの心を一気につかんだ宮崎監督が、「風の谷のナウシカ」に続いて生み出した傑作中の傑作である(と六十歳手前になっても、私はそう確信している)。
一方、二〇〇〇年代に全世界的大ヒットとなったのが「ハリー・ポッターシリーズ」。この作品は福音派の一部から不評を買ってしまったが、そんなことおかまいなしに、小説はもちろん、映画や演劇、ゲーム世界でいまだに高い人気を集め、ついにUSJにテーマパークが造られるほどの一大コンテンツに成長している。不動のエンタメである。
さて、ここで問題。両作品に「共通しているもの」とは、いったい何だろうか?
それは「言葉の力」である。前者は「バルス」という言葉を主人公たちが唱えることによって、天空の城が崩壊するし、後者は「エクスペリアームス」という魔法の言葉を唱えることで、主人公のハリーがラスボスのヴォルデモートをやっつける。要するに物語のクライマックスに「Holy Magic Word(聖なる魔法の言葉)」が唱えられることで、決定的な決着が与えられるのである。
そしてもう一つ共通しているのは、その言葉の中身を理解している必要はなく、ただ「唱えればいい」ということである。まさに魔法の言葉、悪く言うと「呪文」である。
呪文の意味を国語辞典で調べてみると、「特別な力を引き出すための言語表現」となっている。つまり、呪文の音声や定型句にこそ重きが置かれ、その言葉の意味、理解度は度外視されるということになる。だから「バルス」や「エクスペリアームス」という理解不能な言葉として表現されることになるのだ。
ここまでで、勘のいい方はお気づきだろう。私たちクリスチャンが聖書の言葉(すなわち聖句)を、ある種「呪文的」に使っていないか? ということである。「呪文」があまりにもどぎつい表現なら、「Holy Magic Word(聖なる魔法の言葉)」として用いていないか? ということである。
聖書とは日本人にとって、旧約聖書がヘブル語、新約聖書がギリシア語で書かれた「外国の書物」である。これを「翻訳」することで私たちはその意味を理解し、神が人類に語りかけるという体の「メッセージ(これが福音の根幹)」を受け取る仕組みになっている。それ自体は決して目新しいことではない。諸外国で発行された書籍も、同じように翻訳されることで、私たちはその言わんとすることを「日本語で理解」している。
しかし聖書の用い方はこれだけではない。時として私たちはこの聖書の言葉を他者に、しかもまだ神様や福音のことをほとんど知らない方々に「贈る」ことがある。
例えば親戚の子が大学に入り、親元を離れて東京へ行くとする。その子に餞別を送る場合、手紙を添えるとしよう。クリスチャンであるあなたは、その手紙の最後か最初に聖書の言葉を添えないだろうか? または、添えたことはないだろうか?
その行為自体は決して悪いことではない。だが、クリスチャンは心のどこかで聖書の言葉を添えることで、「バルス」や「エクスペリアームス」的な効果を期待してはいないだろうか? 相手にとってその聖書の言葉がどう響くのか、またその言葉の意味をちゃんと理解できるキリスト教的素養が備わっているか、そのあたりをまったく考慮しないで「私のお気に入りの聖句」を書き添えているとしたら、それは「Holy Magic Word(聖なる魔法の言葉)」と何ら変わりない。それで伝道した気になっているなら、それは単なる独りよがりである。受け取った側は決して表には出さないが、そこに「シューキョー(日本人が共通に抱く宗教的なものに対する嫌悪感の表現)」を感じないだろうか?
次回も「聖書=Holy Magic Word論」について、深堀りしてみたい。