連載 伝わる言葉で伝える福音 第15回 「Aさせたいなら、Bと言え!」
青木保憲
1968年愛知県生まれ。小学校教員を経て牧師を志す。グレース宣教会牧師、同志社大学嘱託講師。映画と教会での説教をこよなく愛する、一男二女の父。
もう三十年以上前のこと。私は小学校の教員をしていた。当時、新人教師研修の一環で先輩の先生方から講話を聴く機会が、年に数回あった。
教師になって半年余り経ったある研修会で、私は忘れられない講話に出会った。その講話題は「子どもにAさせたいなら、Bと言え」である。
「皆さん、子どもたちにAさせたければ、あえてBと言いなさい。子どもたちは『Aをせよ!』という言い回しは耳にタコができるくらい聞かされています。だから彼らに『Bするのはどう?』とほのめかすんです。すると彼らは結果的に『BすることによってAをしてしまう』んです。」
そして先生は、『トム・ソーヤの冒険』の中の有名な話を持ち出した。
「トム・ソーヤは、学校をサボった罰としておばさんにペンキ塗りを命じられます。しぶしぶそれをやっていると、そこに友人たちがやって来て彼をはやしたてます。『おばさんに叱られて罰でやらされているんだろう?』と。しかしトムはこう言い返します。『ちがうよ。こんな楽しいことを君たちは知らないのか?』そして鼻歌を歌いながらペンキを塗り続けたのです。それを見ていた友人たちはついにトムに『俺たちにもやらせてくれよ』と懇願する始末。トムは言います、『何かくれるなら、僕の楽しみを分けてあげてもいいよ、どう?』と。すると彼らは自分たちの宝物をトムに差し出し、ペンキを塗り始めました。その結果、トムはたった数時間で、おばさんから言われた作業を終えることができました。」
先生は続けてこう言いました。「『ペンキ塗りを助けて(A)』では誰も動かなかったでしょう。でもこれを『僕の楽しみだ』と表現し、『何かくれるなら分けてあげてもいいよ(B)』と提案したことで、彼らはやる気になったんです。使い古された言い回し、自分とは関係ない指示内容では、子どもの心は動きません。だから『やらせたい内容』への視点を少し変えて、別の言い回しで語ってみる。すると指示された側の受け止め方はまったく変わります。子どもたちを動かすには、その工夫が必要です。
『Aさせたいなら、Bと言え』です!」
この原則は、子どもたちだけに当てはまるものではない。おそらくすべての人間に共通する原則であろう。昨年この連載で毎月紹介した「キリスト教業界用語の言い換え」がこれである。「そんな言い回しがあるのか」「思わず笑ってしまう」と新鮮に受け止めてくださった方々がいてくれて、本当に嬉しかった。
私たちの言い回しには、どうしても伝える側の気持ちが込められやすい。伝える側が「ストレート」に語れば、言いたいことを余すことなく放出できる。しかし聞かされる側(伝えられる側)にとっては、よく耳にするフレーズだからと聞き流してしまったり、逆にまったく聞いたことのない言い回しに自分とは関係ないとスルーさせてしまったりする。この構図が、福音の伝え手と聞き手との間に発生しているのが、現在の日本の福音宣教事情であると思う。
伝え手が「伝える」ことに固執するあまり、聞き手に「伝わる」余地を残せないのである。後者を重んじるなら、聞き手のレスポンスを受け止める余地をこちらも残しておかなければいけない。主導権を相手に委ねるプロセスが絶対に必要である。
トムは、高圧的な態度や低姿勢で頼み込みはしなかった。それではこちらの熱量を一気に放出することにはなるが、相手が引く。離れていく。だから彼はあえて友人たちの自発性に委ねる問いかけをした。そこに断わる余地が残されていたからこそ、彼らの「やらせてくれ」という反応には価値が生まれるのである。
私たちの福音の伝え方をもう一度考え直そう。使い古された言い回しを、何の疑問も持たずに用いていなかったか? 相手に「伝わる」余地を意識せず、ただ「伝える」ことだけを短絡的に見据えていなかったか?
「Aさせたいなら、Bと言え!」式で言うなら、「福音を伝えたければ、断る余地を相手に与えよ!」だろう。