375 時代を見る眼 国際化時代の教会を考える〔3〕 別々ではなく一緒に葛藤する
秦野キリスト教会牧師
照内 幸代
「聖霊と私たちは、次の必要なことのほかには、あなたがたに、それ以上のどんな重荷も負わせないことを決めました」(使徒15・28)。異邦人たちにもイエス様の十字架と復活が宣べ伝えられ、教会が大きくなっていったとき、これまでの自分たちのスタイルとは異なる民族との交流に衝突が生まれました。異質なものと接するキリスト者たちに葛藤が湧き起こったことが分かります。
これまでのユダヤ人であれば、「トーラー(律法)に従わない者とは関わらない」という、問答無用の線引きがありました。しかし、イエス様の大宣教命令により、キリスト者はイエス様の救いの恵みを全世界の人々に伝える使命を与えられたのです。
これまでであったなら、無視する、断絶する、無関係でいる存在であった異邦人たちと、関わっていくことになります。そこには当然葛藤が生まれますが、その葛藤こそ、彼らがイエス様の愛を持っているという証拠なのです。
私も時々、なぜ自分たちは苦労してまで国際教会であり続けるのだろうかと考えたことがあります。別々に教会をやっていったほうが楽ですし、都合のいいことも多いでしょう。しかし、神様はその答えを、2022年8月に見せてくださいました。
ブラジル教会の、日本で生まれ育った中高生5人が、洗礼を受けたのです。受洗準備は私が日本語で行い、洗礼はブラジル教会の牧師が授けました。最近日本にやって来たというブラジル人の男性も、一緒に洗礼を受けました。
それは、日本語とポルトガル語の入り混じる洗礼式でした。日本語しか話さない中高生たちが、自分たちはブラジル教会の一員として生きていくと決断したことが、私にはとても嬉しいことでした。
普段同じ教会内であっても言葉の壁のある彼らですが、国際教会として一緒にやってきたからこそ、こうして豊かな実りとなったのだと感じました。私たちが時に葛藤しつつ、共に歩んできたからこそ、神様の御国は確かに広がったのです。
今後もいろいろな課題は発生していくかもしれませんが、生きて働いている教会として、これかも協力し合って課題に取り組んでいきたいと思っています。