連載 伝わる言葉で伝える福音 第12回 「クリスチャン」ってナニ?

青木保憲
1968年愛知県生まれ。小学校教員を経て牧師を志す。グレース宣教会牧師、同志社大学嘱託講師。映画と教会での説教をこよなく愛する、一男二女の父。

 

一つ質問。
「あなたの前に、クリスチャン弁護士Aさんとクリスチャンでない弁護士Bさんがいます。もしトラブルが起こったとき、あなたはどちらの弁護士に依頼しますか?」
この質問が意味を成すのは、質問を受けている方がクリスチャンの場合である。そうでない人にとっては、弁護士がどんな宗教を持っていようと基本的には関係がない。クリスチャンほど「クリスチャン○○」という肩書きに目を奪われ、相手を見誤ってしまう。
例えば、裁判でAさんは十連敗中、Bさんが十連勝中だとしたら、あなたはそれでもAさんにお願いするだろうか?
そう捉えると、「クリスチャン(キリスト者)」とわざわざカテゴライズする意味は何だろうか?
結論から言うなら、「クリスチャン」とは、さまざまな逆境を「雑草魂」で乗り越え、人々からの批判を「ユーモア」に変えて、信じる道をしぶとく生き抜いていく人たちのことである。

 

歴史上初めて「クリスチャン(キリスト者)」と言われたのは、アンティオキア教会のユダヤ教徒たちであった。使徒の働き11章26節に「弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった」とある。現代の私たちは、この
「クリスチャン」という名称に良いイメージを抱くだろう。しかし、当時はまったく正反対であった。
使徒パウロが活躍した時代、ユダヤ教徒たちの中から「イエスは救い主である」と主張する一派が出現した。彼らは、寝ても覚めても「キリストは……」と語っていた。あまりにもしつこく「イエス・キリスト(イエスは救い主だ!)」と言うので、それを聞いていた周囲はあきれ顔で「あいつら『クリスチャン』か!」とバカにしたのである。現代的に表現するなら「クリスチャン」とは、確実に「キリスト・バカ!」だ。
かつて梶原一騎の作品で『空手バカ一代』というスポ根マンガがあった。主人公が空手道を極めようと、常人では絶対に試さないような特訓を自らに課し、それを乗り越えて強敵をなぎ倒していく物語である。彼は空手の腕をあげることしか考えない。これに没頭している。このニュアンスの「バカ」こそ、キリスト・バカのそれである。
バカと言われたクリスチャンたちは、ここで大きな発想転換を行った。人々が使い出した「クリスチャン」を、そのまま自分たちの名称としたのである。流布していた名称(蔑称)であったため、これをあえて用い、中身を換骨奪胎させていったのである。
だから「クリスチャン」とは、批判をものともしない「雑草魂」によって、名称の中身をしれっと入れ換えていく「ユーモア」を兼ね備えた存在だったのである。
「バカ」という日本語には、蔑称と同時に、ある種の尊敬が込められている。イエスをキリストと告白し、その道に専心する彼らに対して、人びとは半ばあきれ顔で「クリスチャン=キリスト・バカ」と言い放ったのである。
現在、キリスト教会の中で「クリスチャン」という名称はあまりにもお上品に「キリストに似る者」とか「キリストに従う者」と言い換えられてしまっている。これでは当時の躍動感がまったく伝わらない。
それは未信者に対するインパクトとしても逆効果である。彼らは、聖人君子的な「クリスチャン像」を提示されることで、かえって委縮してしまい、教会の敷居を勝手に高くしてしまうだろう。
「クリスチャン」とは、雑草魂とユーモアを兼ね備えた「キリスト・バカ」な輩である。私たちは「キリスト・バカ」らしく、「根拠のない自信(信仰)」の源である私たちの「推し(イエス・キリスト)」を、時が良くても悪くてもしっかりと伝えていこう!