374 時代を見る眼 国際化時代の教会を考える〔2〕 私流と彼ら流の中間地点
秦野キリスト教会牧師
照内 幸代
国際教会で奉仕する上で、モットーにしていることがあります。
「ミスコミュニケーションが発生しても、日本語ネイティブではない彼らのせいにはしない」ということです。彼らは言葉の壁という点で、すでにハンデを負っています。だからこそ、コミュニケーションミスが発生したなら、ネイティブである私たち側の努力や工夫が足りなかったとすべきではないかと考えているのです。
私は月に一回、ブラジル教会で日本語の説教をしていますが、ある時説教に赴いたら、「あれ、今日、パストラ(女性の牧師)の日でしたっけ」と、突然説教奉仕がなくなったことがありました。(逆でなくて本当によかったです!)
こんな時は笑って、「そういえばリマインドしなかったものね。今日用意した説教は来月しますね」とあっさり流しておくのが私流です。
文化の違いのなかで、彼らが100%の努力をもってしても、70や60くらいにしか至らない分を、私たちが30、40と補ってこそ、お互いに過ごしやすい環境が整うのではないでしょうか。
また、もう一つ決めていることは、彼らの慣習になるべく寄り添うということです。日本語教会は午後礼拝をささげ、午前に礼拝をしているボリビア教会と時間帯で分けて駐車場を使用していますが、なかなか約束の13時になっても、車を移動してもらえません。そのたびに「13時になったので車を動かしてください」とお願いをしに行くのですが、ある時、教会員さんからこう言われました。
「先生、私は13時前に彼らが車を動かして、こちらから言いに行かなくても、13時からちゃんと駐車場を使える状態にしていてほしいんです。」
彼女の気持ちは大変よくわかりましたが、こう伝えました。
「それは彼らの文化からして、実行してもらうのは難しいことだと思います。13時になってお声がけして、車を動かしてもらえたら良しとしませんか。」
その方は、私の提案に了承してくれました。
時間前に行動し、相手に気を遣うのは、私たち日本人には当たり前のことですが、それは彼らの当たり前ではありません。こちらの文化慣習を押し付けるのではなく、互いに過ごしやすい中間点をさぐって過ごしています。
