連載 伝わる言葉で伝える福音 第11回 「信仰」ってナニ?

青木保憲
1968年愛知県生まれ。小学校教員を経て牧師を志す。グレース宣教会牧師、同志社大学嘱託講師。映画と教会での説教をこよなく愛する、一男二女の父。

 

クリスチャンがよく犯してしまう過ちの一つに、信仰について未信者に説明する途中(または最後)に「とにかく信じたら分かるから」と言ってしまうことがある。
これはクリスチャン側からすれば間違っていないが、説明する(伝わる言葉で福音を伝える)言葉としては片手落ちである。相手に理解と納得を与えようとして話しているはずなのに、いきなり行動(信じること)を促すからである。当然聞き手は「怪しい」と思う。例えば高額の商品を購入する際、「まずは購入契約書に判を押してください。そうしたらその価値が分かりますよ」と言われて、あなたは何も感じないだろうか?
相手が何とも思っていない時に、いきなり「信仰」というワードを持ち出して解説を始めても、それは「気の抜けたコーラ」にしかならない。むしろTPOを意識することが大切である。クリスチャンである私たちに対し、信仰を持たない方々から「自分たちとは違うぞ、それはなぜだろう」と問いが発せられた時こそ、正しく「信仰」が伝わる契機である。
私は以前からよくこう言われる。
「青木先生はいつもポジティブで活力がありますね。」
複数人からそう言われると、自分では気づかないが、周りからは「元気いっぱい」に思われているのだなと思わされる。その時、さらりとこう言うことにしている。
「『根拠のない自信』があるからね」と。
すると十中八九、聞き手はこう聞き返す。
「根拠のない自信……?」
すかさず私はこう言い換える。
「はい。これをクリスチャンは『信仰』と表現します。でも分かりやすく言えば『根拠のない自信』ですね。だって神様がいるからって言っても、信じていない人にとっては、よく分からないでしょ?」
この言い換えがポイントである。
クリスチャンの多くは「信仰」という表現を好む。しかし未信者からすると、クリスチャンの「信じる根拠」は自分たちのリアリティには響かない。なぜなら「神様」という存在を知っていたとしても、私たちと同じやり方でこれを受け入れているわけではないからである。「神様を信じているから」なんて言われても、彼らからすると、その「根拠(=神様がいるから)」は根拠足りえない。そんな彼らの感覚に寄り添った言い回しこそ、実は最も端的に「信仰」について語る言葉となるのだ。
「とにかく信じたら分かる」という言い回しは、相手に対して「信じる決心をしていないから、あなたは信じられないんだ」というダメ烙印を押すことになってしまう。それは私たちの本意ではないだろう。信仰の素晴らしさを実感してもらうために相手と向き合っているのだから。
彼らの感覚に寄り添った言葉を用いることで、まず彼らが「信仰を持っていないこと」に安心できるようにしたいものである。
今まで多くの未信者の方(日本人)と向き合ってきたが、彼らは自分たちとクリスチャンとの間に勝手に境界線を引き、「お互いに相手のことは分からない」と考えてきたように思える。このような境界線を消し去るには、「未信者から私たちクリスチャンがどう見えているか」を理解しようと、こちらから歩み寄ることである。そして彼らがこれに応えて歩み寄ってくれた時、両者に対話の土台が生まれることになる。
加えて、彼らが私たち信仰者の生き方に憧れを抱いてもらえたらなおいい。そうなったら好機到来である。水は上から下にしか流れない。憧れや問いがないままの「信仰議論」は、キリスト教業界用語の押し付けになってしまう。伝える側は大満足だろうが、伝えられた側はその場からフェードアウトするしかない。
次のような言い回しは、クリスチャン側からは大いに批判されるだろうが、あえて言わせてもらう。
「信仰とは『根拠のない自信』です!」(賛否、お便り待ってます!)