連載 ニャン次郎の哲学的冒険 人間社会を生き抜くための西洋哲学入門 第8回 「自由はつらいよ!」 自由の刑に処されたサルトル
ニャン次郎(代筆・岡村直樹)
ニャン次郎(主猫公)
クリスチャンで大学生の飼い主を持つ茶トラ猫。哲学の授業で困っている飼い主を助けるため、歴史上の様々な哲学者に直接会って話を聞く旅に出ることに!
岡村直樹(代筆者)
ニャン次郎の代筆者。
東京基督教大学の先生で、出身校であるトリニティー神学校ではキリスト教哲学を専攻。
こんにちは! ニャン次郎です。
ボクの飼い主のお兄さんは、大学の哲学のクラスで学んだ「人間は自由の刑に処せられている」という言葉の意味がわからず、とても困っています。そんなお兄さんのため、今回はフランス人哲学者のサルトル先生に会ってお話を聞いてきました。
一九〇五年にパリで生まれたサルトル先生は、早くにお父さんを亡くし、お母さんの祖父シャルル・シュヴァイツァーさんの家で育ちました。ノーベル平和賞を受賞した医師で神学者のアルベルト・シュヴァイツァーさんは、先生の大叔父にあたります。
一九二四年からパリの高等師範学校で哲学を学び、卒業後は高校の先生になりました。第二次世界大戦中には天候観測兵として兵役に就きますが、すぐにドイツ軍の捕虜となってしまいます。一九四一年には身体の障がい(斜視と弱視)を理由に釈放され、ナチ占領下のフランスに戻ります。その数年後に、主著である『存在と無』を出版しました。一九六四年には、ノーベル文学賞に選出されましたが、名誉を受けることは、自由を損なうことにつながると考え、受賞を辞退したそうです。
サルトル先生は、前回紹介したニーチェ先生と同様、「無神論的実存主義」の哲学者と呼ばれます。人間が神によって造られていないのであれば、生まれた時点でその人は、何者でもないということになります。だから人間は、まず生まれてこの世に「存在(実在)」し、その後にひとりひとりが、自分の「本質」(自分とは何者なのか)を決めていくという順番が発生します。これが、「(人間の)実存は本質に先立つ!」という有名な言葉の意味です。またそれは「何にでもなれる」という「自由」な状態を表しています。ただこの「自由」は、半ば強制的に人間に備わっているものですから、そこにはたったひとりで人生の選択と向き合い続けるという苦悩も伴います。さらに本人がすべての選択の責任を取らなくてはならないので、先生はそれを「人間は自由の刑に処せられている!」と表現しました。一方で、自分は外部からの影響で決まってしまった(固定化された)存在だと信じ、自分には自由がないと思い込むことを「自己欺瞞」と呼びます。先生は、こう聞いてこられました。
「ニャン次郎くんは、いつも自然体でいて、いいね!」
「ありがとうございます。でも、最近はそうでもありません」
「あら、どうしたのかな?」
「実はニャン四郎という新しい弟ができたのですが、良いお兄ちゃんにならなくてはいけないと考えて、疲れることがあります。ちなみにそれって自己欺瞞ですか?」
「本当は甘えたいのに、兄だから我慢すべきだ! つねに模範を示さないとダメだ!と考え、その役割に自分を縛りつけ、自由がないと決めつけているなら、それは自己欺瞞かもしれないね。でも、兄としての役割を演じながらも、それが自分の一面でしかないと自覚しているなら自己欺瞞ではないよ。とても正直な姿だからね」
「よかったです。疲れた時は、お兄さんに甘えるようにします!」
無神論者であるサルトル先生は、人生に意味や目的を与える神の存在を明確に否定します。また神に祈ったり願ったりすることに関しては、「自由の放棄」や「現実逃避」として批判します。これはとても残念ですね。
でも、そんなサルトル先生ですが、神がいないのであれば何でもありという自己中心的な生き方ではなく、かえって人間は、社会全体に対しても全面的に責任を持つのだから、積極的に人類の進歩に貢献すべきであると熱く語ってくれました。また、苦悩や不安は人間にとって大切なものであり、その中で本来の自分が形成されていくという考えは、以前紹介したパスカル先生やキルケゴール先生と共通しますね。
ということで、これからお兄さんに報告し、そして少し甘えたいと思います。次回は、サルトル先生を「西洋中心主義者」と言って批判した、レヴィ=ストロース先生からお話を聞きます。
ニャン次郎でした!
