連載 神への賛美 第7回 ヨハネの福音書と賛美(1)

向日かおり むかひ・かおり
ピュアな歌声を持つゴスペルシンガー。代々のクリスチャンホームに育つ。大阪教育大学声楽科卒業、同校専攻科修了。クラシック仕込みの幅広い音域を持ち、クラシックからポップス、ゴスペルまで、幅の広いレパートリーを持つ。

 

「初めにことばがあった。
ことばは神とともにあった。
ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。
造られたもので、この方によらずにできたものは、
一つもなかった。」(ヨハネ1・1~4)
今月からは「ヨハネの福音書」のみことばの中から、賛美の素晴らしさを受け取っていきたく思います。

 

「初めにことばがあった。」この美しい言葉に私が出合ったのは、子どもの時でした。詩的な、そして何か宇宙的でもある不思議な感覚を受けたのです。
特に思い出すのはクリスマスの夜。キャンドルを灯し、いつもと違う美しくおごそかな礼拝の中で、この書が読まれた時。この「ことば」が、普段、自分たちが語るレベルの言葉ではない、と小さなこころで感じたのです。
この「ことば」である方は、イエス様だということは、子ども心にストンと入りました。この方は、初めからおられて、世界を造られた……。
「ことば」は新約聖書が書かれたギリシア語で「ロゴス」。「ことば」のほかに、理性や知性、論理、真実、秩序など、それはそれは一語では現しきれない意味を持ちます。イエス様は、きっとこの「ロゴス」という一言では収まらない方だと思いますが、幼心に感じた遠大なイメージは、大人になった今も広がり続けている気がします。
ところで、人間も神様の似姿として造られたので、言葉をあやつります。人間とほかの動物たちとの決定的な差は、この言語にあると言ってよいかと思うのですが、さらにもう少し突っ込むと、「歌う」ことにあると思います。
YouTubeなどを見ると、時々かわいらしいオカメインコが、ミッキーマウスマーチのメロディーを歌いながら首を振っている動画に出くわします。またシベリアンハスキーが、ほぼ空耳とも言えそうな「I love you」を連呼してご主人を笑わせている動画もあります。ただ、どんなに賢い動物も、メロディーか、言葉らしいものをしゃべるかのどちらかで、人間のように音楽と、理性をもって語る言葉を一緒に発する、すなわち「歌う」ものはいないと思います。神様は人間だけを「歌う」ものに造られたのです。

 

内村鑑三は言います。
「歌は魂の声である」という。
完全な歌は歌詞(ことば)と音楽とからできている。
歌詞(ことば)だけでは歌にならず、
また音楽のみでも歌にならない。
「感ぜられたる真理」、これが歌である。
また、マルチン・ルターは、賛美を会衆のために取り戻すため、新しい賛美集・コラールを作りました。会衆賛美が禁止されていたという、とんでもない暗黒の歴史を打開するため、ルターは親しみやすいメロディーを替え歌にしたり、新しい歌を自ら作詞作曲したりして、誰もが賛美を歌えるようにしました。それは「万人が祭司」として主を礼拝するため。また文盲の人が多い時代において、歌で神の「ことば」を心に刻むためでもありました。
ルターが大胆に世俗のメロディーを用いることができたのは、「何を賛美するか、何を告白するか」が重要であり、「ことば」の本質を知っていたからなのだと思います。だからこそ彼は、それまで教会で使われていたラテン語でなく、母国語のドイツ語で聖書を訳し、そして新しい賛美歌集を作ったのです。それは宗教革命の大きな力となりました。

 

今、日本でも新しい賛美がどんどん作られている素晴らしい時代が来ています。日本人が日本語で賛美の歌を作り、歌う。訳された曲ももちろん素晴らしいのですが、自らの「ことば」で、神を賛美する尊さ。
人間は神の似姿ゆえ、何かを創り出す存在でもあります。神が大宇宙を創造されたように、私たちも何かの小宇宙を作りたい。だとしたら、人間に与えられた「歌」という特別な方法を通し、新しい歌を主にささげるのは、最も人間らしい、神様の栄光の現し方ではないでしょうか。
「ことば」なるイエス・キリスト。この方の「ことば」を私たちは告白し、わがものとし、そして輝かせるのです。神とともにおられたという「ことば」なる方は、賛美の中に住まわれ、私たちとともに住まわれる主、キリストです。