連載 ニャン次郎の哲学的冒険 人間社会を生き抜くための西洋哲学入門 第4回 「理論的理性では神を知れない」カントと神の認識

ニャン次郎(代筆・岡村直樹)

 

ニャン次郎(主猫公)
クリスチャンで大学生の飼い主を持つ茶トラ猫。哲学の授業で困っている飼い主を助けるため、歴史上の様々な哲学者に直接会って話を聞く旅に出ることに!
岡村直樹(代筆者)
ニャン次郎の代筆者。
東京基督教大学の先生で、出身校であるトリニティー神学校ではキリスト教哲学を専攻。

 

こんにちは! ニャン次郎です。ボクの飼い主のお兄さんは、大学の哲学のクラスで教わった「理論的理性で神を知ることはできない」という考え方をどう理解したらよいかわからず、とても困っています。そんなお兄さんを助けるため、今回は哲学者のカント先生に会ってお話を聞いてきました。
イマヌエル・カント先生(一七二四~一八〇四年)は、ドイツのケーニヒスベルクで生まれました。裕福な家庭ではなかったので、家庭教師をしながら学びを続けた苦労人でした。大学教授になった後も、毎日決まった時間に起き、散歩し、そして就寝していたので、近所の人が先生を時計がわりに使っていたという逸話も残る実直な人だったようです。
カント先生は、知識の成り立ちを探る「認識論」という学問分野でとても有名な哲学者です。先生は、「人間なんて所詮、知覚の束だよね!」と語ったイギリス人哲学者で、懐疑主義を唱えるヒューム先生(一七一一〜一七七六年)から大きな影響を受けました。「知覚の束」とは、人間の心は個人の感覚や記憶といった経験の集合体であるという意味です。人間が「普遍的な真理だ」と信じていることも、単なる個人の信念に過ぎないのではないかという考え方で、それが「懐疑主義」と呼ばれます。人間に生まれながらに備わっている理性が正しい知識や真理を生み出すという合理論を信じていたカント先生は、大きなショックを受けました。しかし、ここで先生は考えました。「でももし人間の心が個人の記憶や感覚の集合体に過ぎないなら、数学や科学のような共通する真理はどうやって成立するのだろうか?」 そしてこの問いを元に、有名な『純粋理性批判』という本を書きました。
カント先生は、こう聞いてこられました。
「ニャン次郎くん。これは何かな?」
「猫じゃらしです。」
「どうしてわかったの?」
「ええと、緑色で、先っぽにゆらゆら揺れるツンツンしたかたまりがあって、とても気になるからです。」
「そうだね、そう理解できたのは、ニャン次郎くんの頭の中に、色や動きや形を判断する枠組みがあるからなんだよ。だから厳密にいうと、目の前の猫じゃらしそのものをそのまま認識したのではなく、あくまで私たちの頭の中の共通する認識の枠組みに従って形作られた猫じゃらしの像を見たということになる。それを難しい言葉で『対象が認識に従う』って言うんだよ。」
「そうなんですね。」
「じゃあ、色も動きも形も感じることができなかったらどうだい?」
「それが何なのか、あるのかないのかさっぱりわかりません。」
「正解だよ! たとえば神の存在は、色や動きや形を判断する人間の理論的な理性の守備範囲を超えているから、知ることができないんだ。」
そんなカント先生ですが、神様の存在を否定したわけではなく、別の視点から捉えようとしました。先生は人間の中にある、「嘘はよくない」「約束は守る」「猫を大切にする」といった普遍的な道徳の法則に注目し、その法則を支える普遍的な神様の存在も認めて、道徳的な社会を築くべきであると考えたのです。そしてそれを理論的な理性ではない、実践的な理性の働きと呼びました。カント先生は、神様を理論的な理性で知ることはできなくても、良心に従って道徳の土台とする必要はあると主張したということです。
確かに聖書には、「見ないで信じる人たちは幸いです」(ヨハネ20章29節)と書かれています。それは理論や五感ではなく、信仰によってのみ知り得る「人格的で愛なる存在」としての神様です。
一方、カント先生は神様を、「道徳の原則として必要な存在」としました。これは大きな違いだと思います。とはいえ、科学革命や合理主義が幅を効かせる社会の中で、何とか神様の居場所を確保しようとした結果だったのかもしれません。ということで、これからお兄さんに報告します。次回は「絶対精神」を説いたヘーゲル先生からお話を聞きます。
ニャン次郎でした!