連載 伝わる言葉で伝える福音 第6回「聖書」ってナニ? PART 2
青木保憲
1968年愛知県生まれ。小学校教員を経て牧師を志す。グレース宣教会牧師、同志社大学嘱託講師。映画と教会での説教をこよなく愛する、一男二女の父。
私たちは聖書を「神様からのラブレター」と受け止め、「ここに真理が語られていて、すべての答えがある」と信じている。何度も繰り返すが、この考え方が間違っていると言いたいわけではない。しかしまだ神様をご存じでない方にとって、そんな言い回しで聖書を紹介されたとしても、おそらくその本質を理解することはできない、ということである。
そこで前回お伝えしたように、聖書を「知恵の書」と表現することが大切である。もっと正確に定義するなら、「生きづらいこの世界を生き抜くための知恵に満ちた書物」であるということだ。しかし何の脈絡もなく伝えても意味がない。聖書がどんな書物であるか、そこに興味を抱かせるためには、それなりの準備(そして知恵)が必要である。一つ実例をお伝えしよう。
私が卒業した同志社大学大学院神学研究科には、その当時一つ困ったことがあった。それは、神学部ラウンジの前に設置されている置き傘がいつの間にかなくなってしまうということだった。雨が降ってくると、置き傘をしていない学生がそこにやってきて、傘を勝手に持って行ってしまうのである。ついに業を煮やしたある教授が、独自で貼り紙を作成した。するとそれ以後、置き傘被害がぴたっと止んだ。はたして、この教授はどんな貼り紙をしたのだろうか? それはこの一言だった。
「神は見ている」
その後、この現場には多くの学生が訪れ、その貼り紙(言葉)を笑いながら写真に収めていた。そんな光景を私はしばしば目にしたのである。
こうした言葉を一般的に「キラーフレーズ(殺し文句)」と言う。これは神学部だけに、さもありなんと思わせる言い回しである。訴えたいことを明確にしながらも、それを独特のユーモアで包み込んだ一種の「大喜利(言葉遊び)」と言ってもいいだろう。このキラーフレーズにこそ、99%の人が抱く「知恵」と1%のクリスチャンのそれとを繋ぐ根源的な働きがある。
知恵が「知恵」として認識される場合、その言葉に遭遇した人の状況を何らかの形で変化させる作用がそこに含まれる。置き傘の被害が存在し、それを防止する働きをこの言葉が為した。事の顛末は、クリスチャンであってもそうでなくても理解できる。もし聖書の言葉がそのような用いられ方をするなら、それが何千年前に書かれたものであったとしても、またキリスト教という「外国の宗教」の聖典であったとしても、この貼り紙を笑いながら写真に収めた人(そして置き傘を持って行くことをやめた人々)にとっては「今の私に影響を与える新鮮な言葉」となる。
だから「生きづらいこの世界を生き抜くための知恵が、聖書という書物には詰まっているじゃないか!」と思わせることができたら、人々は進んで聖書を手にするはずである。
私たちは「知恵」という言葉を用いて、神様をご存じでない方のニーズを刺激しよう。求める思いがあるところに真の満たしが生まれるのだから。漠然とした不安を抱える現代だからこそ、不安を感じている自分を誰にも知られないように、そこから抜け出せる道を人々は求めるのだ。
ひとたび彼らのニーズを悟ったら、大喜利でもキラーフレーズでもいい。そんなものの一種として、サクッと聖書の言葉を相手に差し出そう。「こんな言葉があるけど、知ってる?」と、どこか他人事のような言い方がいいかもしれない。そのほうが相手にとって「自分で見いだせた」感が強くなるからである。恩着せがましくぐいぐいと迫るのでなく、相手のニーズを全く無視して何の脈絡もなくいくつも聖句をメールするのでもなく、「これしかない!」というタイミングで「神の知恵の言葉」を指し示すのだ。そうした聖書の言葉は、相手にとってキラーフレーズとなる。
ぜひそんな知恵の言葉の数々を、聖書の中から見いだしておいてもらいたい。きっとその言葉が、この世
界に確かな光を灯すだろうから―。