連載 伝わる言葉で伝える福音 第5回「聖書」ってナニ? PART 1

青木保憲
1968年愛知県生まれ。小学校教員を経て牧師を志す。グレース宣教会牧師、同志社大学嘱託講師。映画と教会での説教をこよなく愛する、一男二女の父。

 

私たち「プロテスタント」が共通に受け止めている事柄、それは「聖書が私たちの基準である」こと。これに異を唱える者はいないだろう。しかし、この「聖書」という書物は、神様をまだご存じでない方々からどう見られているのか? そのことに思いを馳せたことがあるだろうか?
今回から数回にわたって、私たち信仰者の土台となっている「聖書」について考察していきたい。

 

「聖書」と書いて「神様からのラブレター」と読む。そんな話を牧師の説教やクリスチャンの証しで聞いたことがあるだろう。間違っていない。そのとおりである。しかし……
残念ながら、この言い回しはクリスチャン以外の方から支持を得られるものではない。検証したければ、人が集まるところで「これは神様からのラブレターです」と言って実際に聖書を配ってみたらいい。受け取ってくれる人と受け取ってくれない人がいるはずだ。そして、後者が圧倒的に多いと予想できる。一方、聖書の代わりに「少年ジャンプ」(最新号)を大量に買い込み、配布してみてほしい。おそらく中高生を中心に手に取ってくれるだろう。悲しいかな、これが「現実」である。
神様についてよく知らない方々が九九パーセントもいる日本において、聖書とは「わけの分からない宗教書」「手にする価値があるとは思えない古文書」なのだ。ましてや「神様からのラブレター」など、自分に関係ないし、そんなものを押し付けられても迷惑でしかない。
では、どうしたら私たちが理解している意味での「聖書」を人々に理解してもらえるだろうか? 大切なことは、私たちが受け止めている聖書の価値や意義を、第一声から宣言しないことだ。
「聖書に真理があります!」
「すべての答えがあります!」
「世界のベストセラーです!」
よくやるパターンだが、これでは推理小説をこれから読もうとする人に、あらかじめ「犯人はこの人です!」とネタバレするようなものだ。やってはいけないし、今までそうしてきた結果、聖書の真価を彼ら自身が「見出すプロセス」、そして「神の言葉に出会う感動」を奪っていたのかもしれない、と反省させられる。
そこで改めて問う必要がある。「聖書」ってナニ? と。
結論から言うなら、「聖書とは生きづらいこの世界を生き抜くための知恵の書」である。この「知恵」という語が、クリスチャンとノンクリスチャンをつなぐキーワードとなる。
クリスチャンにとっての「知恵」とは、神の知恵である。一方、ノンクリスチャンにとっても、「知恵」は欲しい要素の一つである。人々は、漠然とした不安を払拭する知恵(指針・ノウハウ)を求めている。だから「知恵」という言葉が一パーセントと九九パーセントをつなぐ働きをしてくれるのである。
聖書が「聖なる書物」となるためには、まず読んでみたい、と思わせられなければならない。大切なのは、聖書に触れてもらいたい方々の「ニーズを知る」ことである。平たく言えば、その本を手にすることでどんなメリットがあるか、どんな〝ご利益〟があるか、と思わせられることである。それがすべてではないことはクリスチャンなら当たり前だろう。しかしそういった深みに到達するための「最初の一歩」としては、彼らからこちらに向かってきてくれなければ、いくら聖書が「真理」で「最終解答」であってもその価値に気づかせることはできない。
現代日本は、不安や恐れに満ちている。円安、物価高、少子高齢化など、挙げたらきりがない。こういった漠然とした不安を何とか解消したいと思っている多くの人々に、聖書には「生きづらいこの世界を生き抜くための知恵」が満載である、と伝えたらどうであろうか。まさに「知恵」が必要となってくる場面である。
「ネタバレはおやめください!」(つづく)