いのちのそばに ~病院の子どもたちと過ごす日々~ 第11回 いのちの力
久保のどか
広島県瀬戸内の「のどか」な島で育ち、大学時代に神さまと出会う。卒業後、ニュージーランドにて神学と伝道を学ぶ。2006年より淀川キリスト教病院チャプレン室で、2020年より同病院医事部で、小児病棟、こどもホスピス、NICU病棟において子どもたちのパストラルケアに携わり、現在に至る。
病院で出会う小さな赤ちゃんや子どもたちに驚かされることの一つが、彼らのいのちの力です。ただまっすぐに生きようとするそのパワーに圧倒されます。
先日、小児病棟の保育士さんとお話をしている中でも話題になりました。保育士さんが話してくださいました。「子どもたちのまっすぐな、純度一〇〇パーセントの生きる力を見ていると、すごいな~って思いますよね。子どもたちはいつも全力で嫌がるし、力のかぎり叫ぶし、とにかく今だけを生きている気がします。そんなふうに生きられるって素晴らしいですよね。大人はいつからその純度が薄れてしまったのでしょうね」と。私も本当にそのとおりだなと改めて感じました。
保育器の中で寝ている小さな赤ちゃんは、ゆっくりゆっくり大きくなっていきます。治療を頑張りながら、ミルクの量がちょっとずつ増加し、体重が少しずつ増えていきます。赤ちゃんたちの小さな成長を日々見つめるときに感動を覚えます。「いのちは神様とこの子が共に紡いでいくものなのだな。この子は神様に与えられた大切ないのちを受け取って、ゆっくりしっかり生きようとしているのだな」と、赤ちゃんが生きようとするいのちの力を感じて、胸がいっぱいになります。
また、医療的ケアが必要な子どもたちの成長にとても驚かされます。彼らは言葉でのコミュニケーションが難しいことが多いのですが、身体が大きくなり、成長とともに見せてくれる表情も豊かに深くなっていくように感じることがあります。お母さんたちとお話をしながら、お子さんたちのおうちや学校での様子や成長を教えていただくことや、彼らの成長を感じながら共に喜ぶ時間はとてもうれしいひと時です。入院中の子どもたちは、身体がしんどい中で治療を頑張っています。「神様が身体を支えて、回復に導いてくださいますように」と祈りながら、お兄さん、お姉さんになっていく彼らと過ごす中で、「次はあのお祈りの本を一緒に読みたいな。あの詩集を一緒に読んだらどうだろうか?」などと考えながら、ベッドサイドに行きます。お話をしたり、一緒にお祈りをしたりしながら見せてくれる、私の話を聞きながら考えてくれているようなまなざしや、私の感情までも受けとめてくれているような、彼らが醸し出すその雰囲気から、生きる力の豊かさやいのちの深みを教えてもらっています。
子どもたちから私が生きる力をもらっていると実感することがあります。入院中、自分の身体がとてもしんどいにもかかわらず、体調を崩してしばらく休んでいた私に、「久保さんがたいしたことなくて良かった。それがいちばん良かった」と私のことを心配し、気遣ってくれたお子さんがいます。
また、長く関わっているお子さんと久しぶりに会った日のことです。笑顔で会いに行ったつもりでした。ですが、その子は私の顔を見た瞬間に言ったのです。「久保さん、今日はどうしたの? 疲れているよ。悲しいことがあるなら話してよ!」と。治療を続ける子どもたちは、人の弱さや痛みをとても敏感に感じ取ることができるように思います。そして、優しさといつくしみを携えて、出会う人たちにそっと寄り添い、力をくれる、そのようないのちの力を感じます。
「いのちの力」を考える中で、私の心に響くのが、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けた直後に天から告げられた神様の声です。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」(マタイ3・17)。洗礼はイエス様と共に古い自分が死に、イエス様と共に新しいいのちを生きること、神様の子どもとして生まれることを表します。そのことを自ら示してくださったイエス様は、弱さや痛みを背負う私たちといつまでも共にいること、そして、私たちがイエス様と共に新しいいのちを生きるために、いのちをかけて″道〟となることを、覚悟をもって引き受けられたのではないでしょうか。そして、「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」とのご自身に告げられた神様の言葉を、私たち一人ひとりにも告げられた神様からの伝言として受け取ってくださったのではないかと私は思うのです。
私たちのいのちは、この神様に命がけでいつくしまれ、愛されているのです。子どもたちが神様の声を受け取ることができますように。神様のまなざしの中でいのちが守られ、神様の力でいのちが支えられますようにと心から祈ります。