356 時代を見る眼 「生まれてよかった」と思えるために〔2〕 その経験が希望となるように

社会福祉法人 救世軍社会事業団
吉田 有

 

自分自身の存在を否定する子どもを目の前にし、課題の大きさと難しさにぶつかり、祈ることさえ虚しく思うような瞬間があります。子どもを取り巻く社会は、神様への祈り、嘆きなくしては、受け入れることができないような不条理に満ち溢れています。日々、「神様、なぜですか」「なぜ、この子がこんなつらい思いをしなければいけないのですか」「なぜ、このお母さんは泣いて自分を責めながら、自分の愛する子に手をあげなければならないのですか」と問いかけます。神様の計画をすべて理解することはできません。しかし、どのような境遇でも、信じることができない現実を前にしても、神様には平和の計画があるのです。私の役割は、誰も希望を見いだせない状況にあっても、神様の計画に希望があることを信じ、祈ることだと思います。もちろん、できる限り、考え得る限りの支援や連携を試みます。その先は、ゆだねることしかできないという場面がほとんどです。
そのような中で、思いもしなかった恵みや祝福に与ることもあります。施設を卒業した子どもとの交流、共に涙し、励まし合える里親さんとの出会い、バラバラになりそうな家族と共に苦難を乗り越える喜び、多くの失敗や後悔の狭間にたくさんの恵みがあります。
先日、児童養護施設を卒園後、県外の大学に進学した子どもの卒業式に出席しました。痛みや苦しみを体験してきた彼女が、これからの歩みに踏み出そうとしていました。その晴れ姿を見られたことは幸せでした。彼女は大学で福祉を学び、支援者としての人生を歩むことになりました。式後に、大学の恩師に紹介されました。お互いに彼女を通してよく知った気持ちになっていましたが、初対面でした。大学の先生は「彼女は多くの痛みを経験してきたので、良い支援者になると信じています」と言ってくれました。
「痛み」は避けられるならば避けたいものです。しかし、経験したその「痛み」ゆえに「他者の痛みを理解したい」と思えること、他者への配慮に心が向かうことがあると感じます。そこに希望があることの根拠は、「イエス・キリストが十字架によって私たちの痛みを経験してくださった」というところにあるのかもしれません。すべての子どもが「生まれてきて良かった」と思うために、祈り続けたいと思います。到底信じることができないほどの痛みや苦しみの経験が、それらを経験した子どもにとって希望となることを信じて。