連載 グレーの中を泳ぐ 第3回 理想の牧師子女にはなれない

髙畠恵子
救世軍神田小隊士官(牧師)。東北大学大学院文学研究科実践宗教学寄附講座修了。一男三女の母。salvoがん哲学カフェ代表。趣味は刺し子。

 

死にたかった時も、がんになった時も、イエス様はそこにいた

 

小学三年の春、両親は広島から東京・大森の教会に転任になりました。広島から来たので、原爆を想起させるあだ名をつけられ、いじめが始まりました。筆箱を開けたら糊がべったり入れられていたり、蹴られたり、仲間はずれにされたり。しかし日曜の教会は私にとって居場所でした。
土曜の夜は家族で教会の掃除や日曜の準備をしました。父がほうきで会堂を掃き、母と兄と私は雑巾で椅子を拭きました。母が糊とご飯を練って糊状にして、父が模造紙に書かれた説教題を看板に貼りました。週報のために母がガリ版を切り、父が刷りました。教会は楽しい、日曜日は楽しいと思える経験もたくさんしましたし、教会員の方がかわいがってくださり、気にかけてくださいました。
しかし、やがて私が牧師になるための、両親からの奉仕訓練が厳しくなっていきました。特に勉強・教育に熱心でしたが、残念ながら私は勉強が苦手で成績も悪く、忘れ物も多く、性格も暗く、いじめにもあうという「理想の牧師子女」からはほど遠い子どもでした。
牧師になるのだからこの世の友だちは必要ないと、友だちの誕生会への参加や外出にも厳しい時間制限がありました。また持ち物、洋服なども「不良の色」は禁止、当時はやり始めたゴスペルは「悪魔の音楽」、英語の単語などは指定範囲を三十分以内に暗記しなければたたかれるなど、今でいうところの虐待でした。でも両親は、私を牧師にするためにそれらが良いことだと本気で信じていました。また今思えば、私が自分たちの目の届かない場所に行き、考えを持ち、行動すると、姉と同じように私も失うことになるのでは、と恐れていたのだと思います。
中学生のある時、私は父の厳しい態度に耐えかねて、「お父さんは私たちに好き勝手に暴言を吐いたり暴力をふるって、私の努力不足や欠点や間違いを怒るけど、お父さんの間違いや欠点は誰も指摘しないし、暴言もないでしょ。そんなのおかしい。間違ってる!」と叫びました。父は何も言いませんでしたが、それ以来、暴力はなくなりました。
年に一度、牧師志願者を募る日曜日がありました。その日は志願者が起こされるように特に祈り、礼拝の最後には神に牧師として召されていると思う人は前へ進み出るようにと言われます。私はこの日曜日が大嫌いでした。なぜなら、前へ出なくてはならないからです。牧師は、自分の子どもが献身表明してこそ、信徒の子どもさんに献身を勧めることができるというような構造があると、子ども心に感じていました。
小学生の間はいじめにあっていたことや、勉強もできなかったこともあり、皆と同じ中学に行ってもどうせまたいじめられると思った私は、たまたま知っていたミッションスクールに行きたいと思うようになりました。しかし何しろ私立で学費がかかるため、両親もずいぶん悩んだと思います。特に学力については塾に行っても合格ラインに届かないのは明らかでした。そこで入試の前に父はその学校の校長と面談して「うちの娘は牧師になりますので、この学校に入れてください」という決め台詞を出したようです。それで合格したとは思えませんが、なぜか入学を許可されて中高と通うことになりました。
中等部入学式の礼拝で賛美歌の「ここも神の御国なれば」を初めて歌いました。ここ、とはこの学校を指していたのだと思います。毎日の学校生活を送るこの場こそ神の国なんだと、期待と喜びを胸に抱きました。しかし残念なことに、私は相変わらず勉強が苦手、性格は暗く、物事を斜めに見る傾向もありました。学校と両親が期待する「成績優秀で誰からも好かれ、明るく信頼されていて同級生に神様の愛を伝える牧師の子女」からはほど遠かったのです。
そのことをはっきり言われることもありました。それは、牧師になるための努力と成果がないなら生きている価値はない、と言われているように感じました。ああ、私は二十歳になる頃には心が壊れるなと思いました。
その最初のきっかけが高校三年の初夏です。進路を決める話し合いがあり、牧師になるために神学部を志望することに決まりました。その夜、自分は本当はそんな信仰もなく、自分の本心や願いを出さずに神と人に嘘をついている卑怯者だ、偽物の献身者だと思いました。そんな自分に対して罰を下すために目の前にあったハサミでリストカットをしました。血が流れれば痛いのに、気持ちは安堵し赦された思いがしました。