ギリシア語で読む聖書 第11回「民衆と力」(ディーモス、クラトス)

杉山世民

【プロフィール】

林野キリストの教会(岡山県美作市)牧師。大阪聖書学院、シンシナティー神学校、アテネ大学に学ぶ。アメリカとギリシアへの留学経験が豊富で、英語とギリシア語に
精通。

「民衆」と「力」という語が新約聖書にそれぞれ何度か出てきますが、この二つの言葉を合わせてできた「民主主義」という言葉は、聖書の中には出てきません。この民主主義の思想、政治形態は、人間をこよなく大切にする古代ギリシアで生まれたものです。古代ギリシア・アテネにおける民会による直接民主主義がその源流と言われています。
この「民主主義、民主制」を意味するギリシア語のディモクラティアのディーモスは、当時、軍事上の区分単位として設けられた「区」を意味していたようですが、普通、「民衆、会衆」と訳されます。
新約聖書の中では、このという言葉は、「使徒の働き」にしか出てきません。12章22節で、ヘロデが支配する国から食料を得ていたツロとシドンの人々がヘロデに忖度して「神の声だ。人間の声ではない」と叫びますが、この人たち(「集まった会衆」)がで表現されています。新改訳2017では、はすべて「会衆」と訳されており、公の行動をする民衆、会衆と言うことができます。
新約聖書の中には、人々の集まりを意味する言葉が、いくつかあります。主イエスが地上を歩まれたとき、周りにいつも人々が集まっていました。マタイの福音書4章25節には「大勢の群衆」が主イエスに従ったと記されています。ここではとあって、オフロスという言葉の複数形が使われています。これは主イエスの周りにバラバラと集まって来た無組織の「群集」と言えます。
また、「国民、民衆」を表す言葉にラオスという言葉があります。これはもっぱらイスラエルの国民を意味しています(例 ローマ9・25)。また、イスラエル以外の国民、部族を意味する言葉には、エスノスがあり、この複数形の冠詞付きエスニは、もっぱら「異邦人」を意味します(例 使徒10・45)。
ところで、ディモクラティアという言葉を構成している後半の言葉クラトスですが、これは「権力、力」を意味する言葉ですから、結局、会衆が権力を得ることを「民主主義」と言うことができます。の動詞形はで、「支配する、力で自分のものとする」という意味を持ちます。マルコの福音書3章21節には、主イエスの身内の者たちが、主イエスは「おかしくなった」と思って「連れ戻しに」出てきたとあります。おそらく、家族会議でもやって「最近、イエスはどうもおかしい。家に連れ戻そう」と話し合ったのかもしれません。3章32節には、主イエスの兄弟姉妹、それに母親のマリアが、主イエスを連れ戻そうとしてやって来たとあります。
確かに、民主主義には、国家権力による専制主義ではなく、会衆の意見を大切にするよい面があります。今から三十年以上前、ギリシアのアテネ大学で勉強していた時、シンタグマ広場と国会議事堂の間を走っている主要道路で見た光景を忘れることができません。時は、朝のラッシュアワーでした。私が歩いてシンタグマ広場の階段を上ると、道路の上で何やら大きな声で言い合っていました。よく見ると定期バスの中年の運転手と一人のご高齢の男性が言い争っています。よく聞くと、この男性が道路を渡ってバスの前を横切ったらしいのです。それをこの運転手が咎めているらしいのですが、男性も何やら言葉で対抗しているのです。見るとバスの後ろには、通勤中の自動車がたくさん並んでいましたが、何も言わず、議論が終わるのをジッと待っていました。私は、これを見て「さすが民主主義の国ギリシアだなあ」と感心し、ギリシア人に尊敬を覚えました。大阪なら「こらぁ、何をしとるんじゃあ、アホ!」と言い捨てて、通り過ぎるかもしれません。
でも、別の時に、定期バスの中で見た現代ギリシアの荒っぽい「民主主義」をも思い出します。私は定期バスに乗っていたのですが、ギリシアのストライキ(アペルギア)に伴うデモ行進に遭遇したのです。バスは、当然、停まります。しばらくすると乗客の一人が「急いでいるから降ろしてくれ」と運転手に言うのですが、運転手は「規則でバス停以外では降ろせない」と主張。これも言い合いになりました。しばらくすると乗客が、ほぼ全員、大きな声で「降ろせ! 降ろせ!」と声を合わせて言い出したのです。私は驚きました。すると運転手は、仕方なくドアを開けて、その乗客を降ろしました。私は「これは乱暴な民主主義だなあ」と思って見ていました。
言うまでもないですが、神の国は「民主主義」ではありません。全知全能の神ご自身が支配したもう「神の国」です。