京都のすみっこの小さなキリスト教書店にて 第八回 「ひとりぼっち」の時間

CLCからしだね書店店長 坂岡恵
略歴
社会福祉法人ミッションからしだね、就労継続支援A・B型事業所からしだねワークス施設長。精神保健福祉士。社会福祉士。介護福祉士。2021年より、CLCからしだね書店店長。

 

五月半ばの朝、書店に一本の電話がかかってきました。
「今日、お店は開いていますか?」
若い女性の消え入りそうな声です。
「キリスト教関係者ではないんですが、行ってもいいですか?」
「もちろんです。うちの書店のことは、どのようにしてお知りになりましたか?」
「……インターネットで検索していたら、出てきました。」
しばらく押し黙ったあと、彼女はゆっくり言葉を選びながら話し始めました。
「あの、私、三月に大学を卒業したのですが、それからずっと家にこもっているんです。就活に乗り遅れて、なんとか卒業はしたのですが、外に出るのも怖くなって……。大学では友だちもいなくて、いつもひとりぼっちで、相談できる人も見つからなくて……。でも、このままではだめだと思うんです。それで、ネットで検索して、まずはキリスト教の本屋さんに行ってみようと思ったんです。」
「たくさんたくさん悩んで考えて、キリスト教の本屋さんに行ってみようと思ってくださったのですね。」
「はい。……とりあえず今、本屋さんに電話することができて、ああ、よかったって思います。よかったって思うことがしばらくなかったから、本当に久しぶりに、ああ、よかったって思えた自分が、本当によかったです。」
「よかった」という言葉を何度も繰り返していることがおかしくなったのか、受話器の向こうで、彼女が少しだけ笑ったような気がしました。
書店に電話するという小さな一歩を、「よかった」と素直に喜ぶこころを持っている人なのだと思いました。「よかった」という言葉は、まるで魔法のように、次の「よかった」につながり、それをとなりで聞いていた私まで巻き込んだ「よかった」へと広がっていきました。
同じ五月。長野で、三十一歳の男性が、「ひとりぼっちだと罵られた」と思って、ウォーキングをしていた女性二人と、かけつけた警察官二人を殺害しました。彼にとっての「ひとりぼっち」は、罵られるに値する恥ずかしいことだったのかもしれません。
友だちの数が多ければ多いほど、コミュニケーション能力の高い優れた人間なのだと思いこんでしまう気持ちがわからなくはありません。最近の世間の風潮は、やたらと「コミュニケーション能力」を強調しますから。友だち作りに乗り遅れたまま、たとえば、インスタ映えするような友だちとのきらきらした思い出がひとつもない学生生活を送ることに、まったく意味を見出せなくなる学生さんがいても、少しもおかしくないと思います。
何かの事情で、大学で友だちができなかったさきほどの彼女も、楽しそうに会話する学生たちのことを「いいな、うらやましいな」と思ったことでしょう。明るく生命力に満ちた春は残酷な季節です。大企業の入社式の様子がニュース番組で放映されるたび、同世代の若者たちのどこか誇らしげな顔と、その中に入り切れなかった自分を比較して、やりきれない気持ちになったかもしれません。
けれども彼女は、そういう思いをぐっとこらえて、大学の教室と家とを地味に往復し続けたひとりぼっちの日々の上に、自分自身を立て上げようとしています。彼女が何について「このままではだめだ」と思ったのか、私にはわかりません。また、こもっていた家からの第一歩が、なぜ「キリスト教の本屋さん」だったのかも、私にはわかりません。それは彼女の大切な「ひとりぼっち」の中に大事にしまっておけばよいと思います。
ただ言えるのは、誰かの「お友だちリア充」に心を揺さぶられ、自分の暮らしや人間関係がつまらないもののように思えたとしても、それを誰のせいにもせず、身の回りの小さなことを「よかった」と思う自分を育ててきたのは、誰でもない、彼女自身だったということ。ひとりぼっちの四年間の意味は、そこにあるのだと思います。そしてそれは、友だちを百人作る四年間よりも価値高いことだと、私は思います。
神様はひとりぼっちの時にこそ、ささやかで慎ましい「よかった」を拾い上げて「よかった、よかった」と一緒に喜んでくださる方です。彼女の小さな「よかった」も、神様の「よかった」と響き合い重なり合って、これからさらに広がっていくのだろうと思います。その広がりの豊かさを、彼女は今はまだ、気づいていないと思いますが。
書店に並ぶ本たちが、彼女のひとりぼっちだった時間に、きれいなたくさんの色をつけてくれることを願ってやみません。