340 時代を見る眼 今、カルトを問い直す〔1〕対岸の火事ではないカルト

日本基督教団仙台宮城野教会 牧師
齋藤 篤

 

去る7月8日、安倍晋三元首相が銃弾に倒れました。私はこの事件の第一報を耳にしたとき、嫌な予感がしました。この事件に旧・統一協会(現・世界平和統一家庭連合。以下、統一協会)が関係していなければいいなと。

しかし、その予感は的中しました。加害者は、家族が統一協会信者になったことで、自分の人生がめちゃくちゃにされ、安倍元首相が統一協会と関係があることを知り、犯行に及んだということがわかりました。まさに逆恨み的な動機だったわけですが、いわゆる「カルト」として知られている統一協会の「被害者」が「加害者」となってしまった。被害と加害のらせん階段が引き起こした事件といっても過言ではない、とても痛ましい現実が、私たちにも突き付けられました。

以後、政治と宗教の癒着、カネと宗教の抜き差しならぬ関係が報道され、今日に至っています。
そのようななかで、私たちはあらためて「カルトとは何か」ということが問われています。

カルトと言うと、どうしても恐ろしいものであるという意識が私たちに付きまといます。それは間違いありませんが、カルトに対する理解不足のゆえに、それを過剰に恐れてしまうこともあるでしょう。

また、カルトは「悪」、私は「正しい信仰・教会」の環境にあるから大丈夫なのだと、自分自身をカルトとは無関係であると思うこともあるでしょう。よく教会の看板や週報などで目にする「私たちは統一協会とは関係ありません」といった具合にです。確かにそれも間違いではないかもしれません。

しかし、カルトというものは、私たちから決して遠い存在ではありません。むしろ、私たちの心にしっかりと根付いているひとつの傾向であると言えるのです。ですから、私たちは「カルトなるもの」とは一体何であるかを、決して他人事にならずに自分自身の問題として、真摯に見つめていく必要があります。

カルトとは何でしょうか。ひと言でいえば「人間関係におけるゆがんだ支配構造によって、本来人間に与えられるべき尊厳が奪われ、破壊される状態」のことを指します。

悪魔サタンが神に突き付けた挑戦状とは、まさに支配権をめぐるものでした。そして、人間が人間を支配する歴史が始まることで、現在に至るまでさまざまな弊害が生じたのです。まさにカルトとは、私たち人間が抱える罪の原理そのものであると言えるでしょう。