ギリシア語で読む聖書 第3回 「語られた言葉」(リーマ)

杉山世民
【プロフィール】
林野キリストの教会(岡山県美作市)牧師。大阪聖書学院、シンシナティー神学校、アテネ大学に学ぶ。アメリカとギリシアへの留学経験が豊富で、英語とギリシア語に
精通。

 

日本語に翻訳された新約聖書は、日本語としてそのまま読むのに充分です。ギリシア語から日本語に翻訳される過程においては、ギリシア語原語のみならず日本語にも研鑽を積む必要があり、並々ならぬ努力を必要とすることが容易に推測できます。

とはいえ、新約聖書は本来、日本語で記述されたものではありませんでした。パウロやヨハネやルカが、当時、日本語を知っていたとは到底考えられません。新約聖書記者たちが使ったギリシア語は、古典期とビザンティン期との中間に位置するコイネー期のギリシア語であって、アレキサンダー大王(前4世紀後半)からビザンティン時代(紀元 6〜7世紀)までの間に使われたギリシア語でした。

コイネーギリシア語は、本来、アッチカ方言に基礎を持ち、イオニア方言、ドーリア方言、ビオシア方言などの方言の集約を特徴としますが、この言語は広範囲に広がり、ギリシア語を母国語としない人たちにも多く用いられたため、生活言語として多くの変化を内に含みながら発達していった言語です。

新約聖書が、この言語から日本語へと置き換えられ、翻訳されていく過程の中で、原文の内に意図された微妙なニュアンスが、翻訳の裏に隠れてしまう場合があるようにも思われます。例えば、ルカの福音書1章37節に、やがて生まれてくる主イエスのことについて、御使いが母マリアに語った言葉があります。
『神にとって不可能なことは何もありません。』
(新改訳2017)
『神には、なんでもできないことはありません。』
(口語訳)
『神にできないことは何一つない。』(新共同訳)
と訳されています。
ここで使われているギリシア語は、

となっています。このギリシア語の文章の組み立ては難しいものではありません。(なぜなら)に続いて、(神の側においては)という前置詞句があり、主語は です。動詞はというnot否定辞がくっついています。ですから、この文章全体は、『は、神の側において

、できないことはないであろうとなります。
問題は、この文章の主語です。は「すべての」です。ただ、このという言葉は、本来「語られた言葉(spoken word)」を意味しますが(マタイ4・4参照)、明確に語られた事実という意味から「事柄matter」という意味もあります(マタイ18・16参照)。ここから「すべての事柄は神の側において不可能ではないであろう」というように、神の全能性を意識させるように訳されていますが、主語を「語られた言葉」と理解すると、「すべての語られた言葉は、神の側において無力となることはないであろう」というように、「神の口から出た言葉は、決して不可能ではないし、無力になることはない」「神の口から出た言葉は、空のまま神に帰ることはない」という意味合いが感ぜられます。実際、英語訳のAmerican Revised Version AD1900では、そのように理解されて “For no word from God shall be void of power.”と訳されています。この英語訳を日本語に訳せば『神(の口)から出た言葉は、決して無力に帰することはないであろう』といったような意味合いが意識されています。
Arndt & Gingrich(アーント&ギングリッチ)は、を「あらゆる事柄」と理解して“Nothing will be impossible with God.”と解釈していますが、G. Kittel(キッテル) は、を“Words as distinct from deeds,” と定義していて、興味深いです。
神の口から発された言葉は、必ず成るのであって、決して無に帰することはありません。神の言葉の真実は、まさにこの点にあり、マリアに対して語られた言葉も、語られたように実現しました。マリアも、この後「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と語られた神の言葉への聴従を告白しています。