ここがヘンだよ、キリスト教!? 第10回 神に触れられて伝道者となる

徳田 信
1978年、兵庫県生まれ。
バプテスト教会での牧師職を経て、現在、フェリス女学院大学教員・大学チャプレン。日本キリスト教団正教師(教務教師)。

「遠くの人を愛することは易しいが、近くの人を愛することは難しい。」マザーテレサの言葉と言われます。現実の目の前の人を愛するより、神の愛を雄弁に語るほうがはるかに容易。それが伝道者の一人としての偽らざる思いです。私たちは誰であれ、神の愛に触れることが必要です。愛の燃料が必要なのです。その燃料が供給されるとき、誰もが真に伝道者となるでしょう。

「さて、ツァラアトに冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願した。『お心一つで、私をきよくすることがおできになります。』イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた。すると、すぐにツァラアトが消えて、その人はきよくなった。」(マルコの福音書一・四〇~四二)

「ツァラアト」とは、重い皮膚病のことです。以前の訳では「らい病」となっていました。その言葉を使わなくなった理由の一つに、差別への認識が高まったことがあります。日本にはかつて「らい予防法」がありました。ハンセン病患者の強制隔離を定めた法律で、ようやく四半世紀ほど前に廃止されました。ハンセン病の人々は、病気だけでなく世間の目にも苦しんでいたのです。

ぜひ聖書に描かれている情景を思い浮かべてください。皮膚病の人はどんな様子でイエス様のところに来たのでしょうか。イエス様はどんな様子で接したでしょうか。周りにいた人々は、どのような表情をしていたでしょうか。当時、重い皮膚病に冒された人は、人里離れたところに隔離されました。おそらく一生、病気の人同士で肩を寄せ合って暮らすことになります。人々はそんな彼らのそばには近寄りたくありませんし、彼らも一般社会に出てくることはまずありません。人々は彼らの存在など考えたくもなかったことでしょう。彼らもまた、死ぬまでこの生活なのだとあきらめていました。

しかしある日のこと、ひとりの人が勇気を振り絞ります。イエス様のところにやってきて、治してほしいと頼みました。自分から一般社会に出てきて、イエス様の前に現れたのです。周りの人々は突き刺すような視線を投げかけたはずです。なぜお前がここに出てくるのだ―と。しかし彼は、藁にもすがる思いで、勇気を振り絞って出てきたのです。身を低くしてイエス様に願いました。「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」

この「お心一つで」のところは、「もしお望みならば」と訳すことができます。「イエス様、もしあなたがお望みならば、私はきよくなります。そう信じています」という感じです。それに対し、イエス様はお答えになりました。「よろしい。きよくなれ。」これは「わたしはそう望む」というニュアンスの言葉です。「もし」などと言う必要はない、きよめたいとわたしは切望していると言うのです。なぜでしょうか。その人を深くあわれんだからです。

この「あわれむ」の原語はギリシア語の「スプランクニゾマイ」、「内臓がよじれるような思い」という激しい言葉です。「コンパッション」という英語がありますが、コンが「共に」という意味で、パッションが「苦しむ」という意味です。苦しみを共にする、共苦、それがコンパッションです。イエス様は上から目線で助けてあげよう、と言う方ではありません。一人ひとりを大切に思い、私たちの苦しみをご自分の苦しみとして感じるお方です。勇気を振り絞って現れたその人を見たとき、心が打ち震えました。そして手を伸ばし、彼にさわられたのでした。

この状況を思い浮かべてください。彼は重い皮膚病です。周囲からは近くに寄ることさえ忌み嫌われていました。イエス様はその人に手を伸ばし、さわった。そのとき、二人はどんな顔で互いを見つめたでしょうか。時に、百の言葉よりも一つの小さな行動が、何よりも雄弁に語るものです。イエス様は「きよくなれ」と言われ、彼は癒やされました。しかし癒やされたのは身体だけではありません。イエス様の手は、患部だけでなく、傷ついた心にも深く届いたはずです。その人は町中に出て行ってイエス様のことを言い広めました。とびきりおいしいケーキ屋を見つけ、それを周りに教えたくてウズウズする人のように。

「自分自身を汚れた者と思い込んでいる人は多い。しかし、自分でも触れたくないわが身の最も汚れたところ、わが心のもっとも醜いところにこそ、イエスは手を差し伸べて触れてくださるのだ。」ある神父さんの言葉です。

赤ん坊は母親に抱きしめられることで、安心して生き始めます。人は神に触れてもらうことで人となります。「アバ、父よ」と呼ぶことのできるお方を持つことで、生きることができるのです。神の愛を証しする伝道者として。