特集『聖書 新改訳2017』刊行五年 ~どのように読まれているのか~

一九七〇年に『聖書新改訳』が出版されてから四十七年を経て、二〇一七年には全面改訂された『聖書 新改訳2017』が登場。その刊行から五年が経ち、牧会の現場で、また教育の現場で実際にどのように読まれているのでしょうか。「新改訳」の翻訳の変遷をたどりつつ、現場の声、そして次の聖書翻訳に向けての取り組みをご紹介します。

 

聖書改訂~その変化と恵み~

神戸神学館代表/日本キリスト改革長老・岡本契約教会 牧師  瀧浦 滋

「新改訳」の特徴
「新改訳」という名称は、戦前に新約のみ完成した大正「改訳」聖書のわざを、口語で継承するという意図で名付けられたと言われます。文語訳聖書は明治元訳・大正改訳新約共に、英国のRV(英語改訂訳)、米国のASV(米国標準訳)や中国語・韓国語旧約とも多くの部分で共通する堅実な翻訳で定評があります。聖書の逐語霊感を信じて原典に忠実に翻訳するという精神を継承するという意図だったのでしょう。

「言語が透けて見える訳」によって、単に文章を日本語で意味が通るように移し替えるというだけでなく、言葉の壁はあるが、日本語で原文にできるだけ密着した瞑想ができる訳にという試みです。その点で、原語の構文や文と文の繋がり(syntax)をどれだけ反映させられるか、日本語としての自然さとのギリギリのせめぎ合いがあります。この点がいわゆる「日本語で読んでわかりやすい訳」だけに終わらない新改訳の特徴だと思います。

『聖書 新改訳2017』は、まさにその路線を推し進めた結果です。たとえば、新約聖書公同書簡のようにそれぞれの書簡のギリシア語の文体が違っている場合など、それぞれの書簡の訳を原文の文章の勢いや流れの息遣いにより似たものになるように試みるときに、そのせめぎ合いが問題になったと思います。

ヨハネの福音書などでも、翻訳が常識的な理解を求めて妥協せず、粘り強く原文が追われていって、御父と御子とが一つであり、御子を知ることはまさに神を知ることであることが、読者の置かれている世の常識を超えて浮き彫りにされるように、翻訳が読者にイエスさまが神のキリストであるとの信仰(ヨハネ20・31)と三位一体の信仰を迫るようになっていると思います。

聖書新改訳翻訳のこれまで
また、第一版から第三版までの聖書新改訳との違いの一つは、第一版では当時の日本プロテスタント聖書信仰同盟(JPC)の関係で改革派教会の翻訳者が重要な一翼を構成しており、全面的改訳となった「新改訳2017」は、広く福音派の諸教会から選ばれた翻訳者による教会のわざとしての翻訳として、聖書宣教会をはじめ諸神学校の研究者を編集の中核に迎え、改訂作業が進められた訳である点です。

したがって、改革主義的な聖書的教理体系およびゲルハルダス・ヴォスのような聖書神学構造から翻訳を確認する体制が以前ほどにはなく、もっぱら聖書原語のさらに深い近年の研究の進展に頼って、その研究成果にできるだけ忠実に訳出するということに集中したものとなったことです。
しかし、大改訂ではあっても、あくまでこれまでの聖書新改訳の改訂にとどまる編集方針であったので、聖書新改訳の健全堅実な改革主義的教理体系と矛盾しない本質は、大きく見るとあまり変わっていないと思います。聖書は元来、聖霊の霊感による教理体系がもともと内在して成立している文書なので、その教理体系を確認しつつ解釈することは、解釈学上も基本とされねばならないはずです(cf. Louis Berkof, Principlesof Biblical Interpretation, Ch.7 Theological Interpretation; Baker 1950)。

聖書に教理を読み込むことは間違いだと単純に言う論調は、聖書の超自然的性質を無視しており、信仰の教理なしで聖書が成立していると言い張ることは、聖書が単なる人間の書を集めたものに過ぎないと主張することに結果的にはなります。この包括的な教理的な文脈という点で、今回の改訳で象徴的であったのは、一貫して「義と認める」という翻訳が議論の末残ったことです。もともこの言葉に法的概念があったからではありますが。

また、この聖書に内在する教理的体系という点が翻訳に現れた画期的な例としては、ヨハネ福音書などで今回「エゴー・エイミ」というギリシア語が、出エジプト記三章一四節と直結して「わたしはある」と一貫して訳されたことが挙げられると思います。

『新改訳2017』の特徴
その他、『聖書 新改訳2017』とこれまでの聖書新改訳との違いで忘れてはならないことは、その間のコンピューターの発達を受けて、専門のスタッフにより、用語や表現を中心にした全聖書の原典・各種翻訳についての検索データベースが極めて精緻に完成し、その上で翻訳がなされていることからくる、正確さや一貫性です。

また、小さなことですが、脚注の引照に従来多くの聖句索引や神学書信仰書などからの引照が自由に用いられていたのですが、それが一貫するように整理されました。理由はわかるのですが、従来の雑多な情報の集積が反映していた引照はあるときには便利でしたので、少し寂しくなったという印象もあります。

なお、主の祈りの末尾を欄外に回したのは大きな判断でした。「古い写本が正しい」という本文学の常識をようやくラジカルに適用したわけですが、最近一部の学者の間で後代の多数あるビザンチン写本の正当性を擁護する議論が本格的に始まっているのは興味深いことで、注目すべきだと感じています。

翻訳と日本語のリズム
このたび、改革長老教会がいのちのことば社から発売していただきました『詩篇歌集』の編集の際、長年、原典に基づき、さまざまな翻訳と聖書新改訳との対比をもとに詩篇を韻律訳して、翻訳の選択を迷うときの基準としても使わせていただきました。

私たちの神戸神学館のギリシア語新約聖書講読(ヨハネの福音書)の時間にも、ずっと『聖書 新改訳』また『聖書 新改訳2017』との対比の中で講読をしてきました。

また、改革長老教会の諸会衆は、個人や家庭でのディボーションはもとより、二〇一八年ごろから順次礼拝や諸集会で『聖書 新改訳2017』を採用し、説教やメッセージのテキストとして用いてきました。その中で感じることは、確かに多くの文章の流れや論理や表現がより正確にわかりやすくなったことです。しかし、やむを得ないとは感じますが、鍵となる聖句で正確さと透明性を求めるあまり、日本語訳としての切れ味が鈍ったところもあるように思います。これは正確さや一貫性と、言葉の意味と文脈の持つ力とのバランスの問題、判断の問題のように思います。

その一例としては、マタイの福音書二七章一一節「あなたがそう言っています」や二七章二五節「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に」は、確かに原文のニュアンスですが、日本語として少し慣れにくいと感じました。

『詩篇歌集』の付録の十戒に『聖書 新改訳2017』を用いる時も、ヘブル語原文はもちろん従来の聖書新改訳の訳をはじめ、各翻訳との対比研究をしました。「十戒のようによく記憶され多用される部分は翻訳改訂を極めて慎重に」という編集委員会での方針だったと思いますが、それでも小さな、しかし重要な改訂がいくつかされています。ここを見ていくと改訂の特徴がある意味でまとまってみられます。

第九戒で「隣人に対し」を「隣人について」としたように、明らかに改訂の必要だった箇所もありますが、第四戒で「聖なる日とせよ」を「聖なるものとせよ」としたのはより原文のままに透明に訳したのでしょうし、第十戒の「欲しがってはならない」を「欲してはならない」としたのは日本語の誤解を避けるためでしょう。第一戒で「神々が」を「神が」に、「わたしのほかに」を「わたし以外に」としたのはそれぞれ語彙研究に基づく解釈の判断があると思います。

ただ、聖書の改訳は、御言葉として慣れ親しんでいるものを変えていくわけなので、ある程度の違和感が伴うことがあり、それに慣れるのに少し時間がかかることはやむを得ないと言わねばならないと思います。聖書の霊感は、翻訳にあるわけではなく、原典にある事実を意識し直すことと、翻訳は生きているもので、より正確な良いものに言葉の変化にも乗って変化すべきものだという冷静な理解が、読者の側に必要だと思います。

たとえば、マタイの福音書二〇章二八節の「自分のいのちを与えるために来たのと同じようにしなさい」ですが、もとの「与えるためであるのと同じです」にすっかり慣れているために、はじめて読んだ時は不自然に思えます。しかし調べてみると、この読み方のほうが文法的によく、意味的により深まります。訳語の選択には、十分慎重でなくてはならないと感じますが。

聖書翻訳について考える
聖書の翻訳は、やはり神のことばとして読まれるという点では、完全な形での固定を目指すべきだという面を捨てるわけにはいかないと思います。ですから、翻訳が恣意的な作業であるかのような印象を与えないよう、読者が必然的と感じるように、訳者の真剣な原文の意味と適切な表現の探究への信頼と共感をもって、読者によって読まれることがどうしても必要です。
その意味で聖書翻訳は、聖霊に与えられた同じ信仰に立ち、聖霊に霊感された聖書原典本文をこの国の今に蘇らせるための、訳者と読者の信頼関係による共同作業だということになると思います(「ウエストミンスター信仰告白」一・一〇参照)。

 


『詩篇歌集』
【発行】カベナンター書店 【発売】いのちのことば社

 


学校で『聖書 新改訳2017』
玉川聖学院・聖書科常勤講師 山名高広
本校では二〇二一年度の入学者より、『聖書 新改訳2017』に切り替えて礼拝や授業を行っています。

昨年度は中等部一年の聖書科や、高等部一年の総合科人間学(キリスト教的人間観に基づいて自分や人生について考察する授業)の中で、新しい翻訳を用いて授業を行いました。その中で『聖書 新改訳2017』を実際に使用してみて、私が感じた三つのことを紹介したいと思います。

まず、今の中高生世代にもわかりやすい日本語になったという印象を持っています。本校の入学者の約九割は、聖書に初めて触れる生徒です。その生徒たちは、わからない単語や表現が多いと、自ら調べてみようと思うよりは、諦めて遠ざけてしまう傾向があります。その中で、いかに聖書に関心を持たせるかは、「先生の腕の見せどころ」と言われればそのとおりですが、『聖書 新改訳2017』が生徒たちと聖書の距離を近づけたように感じています。

たとえば「患難」から「苦難」への言葉の変更(黙示録以外)や、「愛は人の徳を建てます」から「愛は人を育てます」(Ⅰコリント8・1)の表現の変更によって、説明を加えなくても本文を理解できるようになったと思います。

次に、わかりやすさに加えて日本語のリズムの美しさも実感しています。学期末のテストでは暗唱聖句を課していますが、特に詩篇が奇数拍をベースに訳出されており、そのリズムは生徒の聖句の覚えやすさに通じているようです。テスト前に階段を上りながら、暗唱聖句をしている姿はほほ笑ましい光景です。

最後に、授業者である私自身が変更点を学びながら、授業に生かす楽しみを感じています。昨年度、ある生徒が「神様はいつからいたの?」「誰から生まれたの?」と質問をしてくれました。そこで、創世記とヨハネの福音書の冒頭の「はじめに/初めに」の使い分けを導入として用い、聖書の示す神様についての授業を展開することができました。
『聖書 新改訳2017』の導入初年度は、過去の資料の書き換えなどの手間もありましたが、生徒と共に新しい発見をする恵みに満ちていたのです。

 


次の聖書翻訳に向けて
保守バプテスト同盟・津田沼教会 牧師/新日本聖書刊行会 代表理事 森 恵一
聖書新改訳の新しい翻訳が出ることが知らされて、応援団のような役割の「教会代表委員会」に加わったのは二〇〇九年頃でした。会合のたびに翻訳編集委員会から聞かされる進み具合にわくわくし、二〇一七年十月の発行に至った時は大きな喜びと、そして主への感謝を覚えさせられたものでした。

その後、新日本聖書刊行会の理事会に加わることになりましたが、次の翻訳は何十年か後、それまでの橋渡しを担うのがこの時期の刊行会事業なのだと、そんなつもりでおりました。

が、すぐに認識を改めさせられました。これは、長い年月をかけて積み重ねられていく取り組みでした。聖書の翻訳をいくらかでもご存じの方々にとっては常識なのでしょうが、私などは目を見張る思いでした。

その様子を少しご紹介するなら、一つには、翻訳に関わるさまざまなデータベースの構築です。聖書の翻訳は膨大な量の情報を集積し、それをふさわしく活用することによって、確かな訳文が綴られていきます。現在はコンピュータを活用できる時代になり、作業の効率化は格段のものとなりましたが、基盤となるデータベースの形成は地道な作業と、長い年月を必要とするものです。しかも、ここまでやれば完成というわけではなく、日々、新たな情報が組み込まれていきます。大変な労力ですが、これが次の改訂に携わる翻訳者たちの大きな支えになります。

翻訳者たちの育成も大きな課題です。すでに翻訳研究会が始まっており、おもに若い世代の人々が聖書翻訳の実際や、翻訳論理、そしてもちろん聖書そのものの研究を始めています。今の若手が改訂時の中心になるのか、それとも彼らが育てる次の世代が実動部隊になるのか、それは二〇二二年にいる私たちにはわかりません。でも、聖書翻訳は年月を積み重ね、世代を経て進められていくのだということを、人材を育んでいく取り組みの中でも痛感させられています。

むろん、今現在の翻訳文面の再検討と改善も継続的になされています。読者の皆様から寄せられるさまざまな情報、そして翻訳編集委員自身がさらに掘り下げていく中で見いだす修正点など、検討すべき事柄は数限りなくあります。聖書の翻訳は生き物と言われることもありますが、神様が与えてくださったみことばを日本語の読者に届けるために、検討会が続けられています。

こういった取り組みについては、「新改訳ニュース」において、より専門的な解説を翻訳編集委員会から提示しております。新日本聖書刊行会のホームページに掲載していますので、どうぞご覧ください。

このように聖書翻訳の取り組みは、これからも継続的に推し進められる必要があります。今の時代にいる者たちは、『聖書 新改訳2017』という翻訳を手にすることができましたが、次の世代、次の次の世代の人々のためにも備えていくことが、今ここにいる私たちの責任でもあろうかと考えます。そのためにも、どうか引き続き刊行会の取り組みのためにご支援ください。

活動の内容、現状については、随時発行します「新改訳ニュース」などでもお伝えしてまいります。どうか祈り支え、経済的にもご支援くださいますよう、心からお願いいたします。