ここがヘンだよ、キリスト教!? 第8回 他者に聴くこと、神に聴くこと

徳田 信
1978年、兵庫県生まれ。
バプテスト教会での牧師職を経て、現在、フェリス女学院大学教員・大学チャプレン。日本キリスト教団正教師(教務教師)。

A・D・リンゼイ「集いの精神」

まもなく平和を思いめぐらす季節がやってきます。大切なのは、“think globally, act locally.” 広く社会に関心を持ちつつも、足元から平和をつくり出していくことです。

私たちは社会や教会において、多かれ少なかれ、考えが合わない人々と関わることがあります。その人たちと平和な関係をどのように築き、心の平安を保つことができるでしょうか。今回は、福音派のルーツの一つであるピューリタンの信仰と、政治学とが交差するところで考えてみたいと思います。

世界の状況をニュースなどで見るにつけ、私たちが享受している安全と自由の尊さを思わされます。たとえば憲法で信教の自由が保障され、どの宗教を信じることも信じないことも自由です。しかしそれは、決して当たり前ではありません。世界には信仰することが文字どおり“命懸け”の地域もあります。現代日本の自由は、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」(日本国憲法第九七条)なのです。そして実は、その「多年にわたる自由獲得の努力」をキリスト者たちが担ったという理解があります。たとえば、英国の政治学者A・D・リンゼイは、ある種のピューリタンの信仰実践が近代民主主義の精神を生み出したと論じました。

民主主義はキリスト教的ではない、と考える向きもあります。神ではなく民、つまり人間を主にするため、牧師など神に立てられた指導者よりも、人々の霊的でない考えが通ってしまうというわけです。しかし、リンゼイが捉えたデモクラシーの精神は少し異なります。

「民主主義は意見の不一致や批判を許すだけではありません。むしろ、それは不一致や批判を容認し、かつ要求しているのであります。」

「不一致」や「批判」という穏やかでない言葉が含まれています。しかしそこに込められているのは、むしろ良い意味での多様性というニュアンスです。

プロテスタント教会では、しばしば宗教改革者ルターに由来する「聖書のみ」が語られます。その主張には当時、自分たちをカトリックと区別する意味合いが込められていました。論点は「誰が聖書を解釈できるか」です。ローマ・カトリック教会、突き詰めれば教皇ただ一人に認めていた聖書の解釈権を、ルターらは批判しました。つまり、「聖書を唯一正しく解釈する権威」を否定し、誰でも聖書を読み、解釈する権利があると訴えたのです。

その結果、プロテスタントの教派的拡散は避けられないものとなりました。ルター派、改革派、急進諸派などに分かれ、その後も数限りない教派が生まれてきました。それは、聖書が一つでも、解釈する側である人間や教会・教派は多様であり、信仰のあり方も多様となるからです。使徒信条などに表されている幹は一致していても、強調する教理や礼拝スタイルなど枝の部分は多様に広がるはずですし、現にそうなっています。つまり、「聖書のみ」を奉じるということは、信仰理解における一定の多様性・相対性・暫定性を認めることになるのです。

民主主義を多数決の原理としてのみ理解する場合、それは多数派を形成して「自分の真理」を通すための手段となります。しかし、リンゼイが「デモクラシーの精神」というとき、まったく逆の姿勢を指しています。むしろ少数派こそ重んじ、耳を傾けるべきだと理解するのです。リンゼイはそれを「集いの精神」と称しました。そしてその精神は、とりわけ会衆主義(会衆一同の総意により教会政治を行うこと)を重んじるピューリタンの信仰生活で見られたものだと指摘します。

会衆主義では、一部の「権威者」に信仰の事柄を任せるのではなく、牧師を含めた信徒たちの合議を大切にします。それは、あらゆる信仰者のうちに聖霊が住んでいると理解したからです。信仰生活の長い人の中にも短い人の中にも、自分の教派の人の中にも他教派の人の中にも、政治的立場が同じ人の中にも違う人の中にも、聖霊は住んでいます。他者に耳を傾けるとは聖霊の声に耳を傾けること、つまり神に耳を傾けることになります。

だからこそ、私たちには他者が必要です。神は私たちを一人で生きるようにはされませんでした。神はあえて他者を、それも時に耳障りなことを言うような他者を、私たちの側に置かれます。それは、自己絶対化という罪を犯しやすい私たちに対する、神の配慮とさえ思えます。

私たちが「集いの精神」を育み、和解と一致へと進んでいくならば、それは福音と平和の目に見える「証し」となるでしょう。

*A.D.リンゼイ『【増補】民主主義の本質――イギリス・デモクラシーとピュウリタニズム』永岡薫訳、未来社、1992年、71頁。