334 時代を見る眼「平和をつくる者」として生きる〔1〕「無力でいいよ」

日本ナザレン教団・鹿児島教会 牧師
久保木聡

 

「人々が惨殺されていく戦争の中で、神は何をしておられるのか?」
そう思いたくなる報道が連日続く中、「イエスは涙を流された」(ヨハネ11・35)という聖句を思い巡らしています。

大切な友が亡くなったとき、主イエスは涙を流されました。今、惨殺が起こる中でも、死にゆく一人ひとりのため、主イエスは涙を流しておられます。なので、まずは傷つき、死に至った一人ひとりを思いながら、わたしも涙を流したいと思うのです。

「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります」(ヨハネ13・7)とも主イエスは語られました。「全能の神がおられるにもかかわらず、なぜ戦争が起こるのか?」という問いに対し、「人間の罪ゆえです」という模範解答に半分納得しつつも、「やっぱり分かりません!」と叫びたくもなります。とはいえ「後できっと分かる」と信じていきたい思いもあります。

「無力でいいよ」

最近、わたしは自分にそう語りかけるようになりました。ともすると、戦争の報道を受け、何もできないわたしは無力でダメな存在だと自分を打ち叩くことになりかねません。

そんな中、「無力でいいよ」という言葉にホッとしています。戦争の報道を通して「自分は無力でダメだ」と思い続けるなら、自分の中で強烈な内部紛争が続くことになります。「無力でいいよ」はわたしの中に停戦をもたらします。

もう一つ言葉を足すなら「無力でいいよ。でも微力はあるよ」となります。祈ることはできる。募金することはできる。コロナや戦争の報道などに頭を痛める一人の人の隣に座り、共に嘆くことはできます。ささやかだけれど、5つのパンと2匹の魚のようなもの。「それが何になるでしょう」(ヨハネ6・9)と弟子は過小評価しましたが、結果として5,000人が満腹することとなりました。

今日、自分が平和であること。そして今日出会う人と共に悲しみ、共に笑い、平和を分かち合うこと。そして、戦争のさなかにある人のために祈り、募金すること。

そんな5つのパンと2匹の魚を差し出すような小さな歩みは、神がわたしたちと一緒に造ろうとしておられる大きな平和に、いつか、どこかで、しっかりつながっていくような気がしています。