332 時代を見る眼 神なき経済とコロナ禍〔2〕  マルクスと聖書の語る「疎外」

千葉大学大学院国際学術研究院・教授
石戸 光

イエス・キリストは、天国の奥義がどのような人々に与えられるかについて、「持っている人は与えられてもっと豊かになり、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」(マタイの福音書13章12節)と言われました。地上の富についても、このことは当てはまっているようです。
世界の何人かの富豪の総資産は、コロナ禍でも金融資産の値上がりによって倍以上になったそうですが、その一方で、日本においては派遣社員の方々が会社の売り上げ低下のために契約を打ち切られて、所得が減ってしまったなど、豊かさの格差が顕著です。そのため、19世紀の思想家・社会運動家カール・マルクスの主著『資本論』があらためて注目されています。

マルクスは「剰余価値」という、人間の労働によって賃金水準を超えて余分に生産された価値の部分が、資本家(労働者を使う側)によって独占されている点が、資本主義における格差拡大の原因、と指摘しました。また、「労働の疎外」、つまり何のための労働かが見えなくなり、労働者が大事にされていないという感覚が資本主義にはつきものという点にも言及しています。

コロナ禍のデジタル化や人工知能(AI)・ロボットの利用は、生産性を向上させ、暮らしを便利にすることもありますが、人間(労働者)の使い捨てが同時に起きるとすれば、「労働の疎外」につながります。

マルクスは人間の労働が「商品」のひとつになり、人間が商品・貨幣から支配される「物神性」を資本主義の問題点としました。彼は、労働者としての人間の「弱さ」(労働者が利益至上の資本主義体制に取り込まれて「商品化」され、労働力の主体的で自由な所有者とはなれない弱さ)に着目して資本主義の変革を訴えました。

一方聖書には、人間の弱さと同時に「自己中心」さ、つまり人間の労働力が神様からの賜物であることを忘れて、「私自身の力はすばらしい」とする傾向(けれども、労働で作ったものはいつか壊れ、理想社会も自力で作れない限界から、結局は労働の目的が見失われて喪失感・疎外感につながってしまう)が指摘されているように思います。

資本主義であってもなくても、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書43 章4 節)と言ってくださる神から離れた自己中心のままでは、人間は資本主義でも共産主義でも「疎外感」、存在を大事にされていないことを感じるのでしょう。