特集 みことばを生きるために 聖書を読むことは「神との交わり」なのか?

新しい一年の始まりをどのように迎えますか? 聖書に親しむ一年になるように、ディボーションとは何か、なぜ聖書を読むべきなのか、信仰者として歩むとはどういうことなのか……などについて考えます。
新年に最適なディボーション向けの書籍もご紹介します!

 

聖書を読むことは「神との交わり」なのか?

中之条キリスト集会  篠原 明

 

学生時代に教会で「心の貧しい者」(マタイ五・三)とは、どのような人かを語り合っていた時のことです。
私は、「ここで『心』とは『霊』(プネウマ)ということばが使われている。内村鑑三は、『心』を『心霊』と訳している。そして『私たちは心霊において神と交わる』と言っている……」と話しました。
それを聞いていたある兄弟は、「私は『心の貧しい者』とは、神の前で『主よ、私はほんとうに心の貧しい者です』と心を痛めている人のことだと思います」と言いました。
私は「そんな解釈をだれが書いてるの?」と思ったでしょうか。いいえ。私はその瞬間、直感的に「負けた!」と思いました。自分の聖書の読み方も神様との関係も、何か大切なものが欠けている(しかし、彼はそれを持っている!)と実感しました。

ディボーションの間、私たちに何が起こっているのか

私たちは、クリスチャンとして成長を求めています。そのために聖書を読むことは欠かせません。まずは聖書通読。そしてディボーション(静思の時)。

ところで、私たちの聖書の読み方は、神との交わりになっているでしょうか。そもそも私たちは聖書を読むとき、実際には何をしているのでしょうか。ディボーションのとき、私たちに何が起こっているのでしょうか。

もし私たちが二千年前に生きていて主イエスさまに直接お会いしたら、主の語ることばを聞いたり、主に話しかけたりしたでしょう。じつは、ディボーションをするとき、それと同じことが起こっていのです。

すなわち、私たちはみことばを黙想するとき、みことばを通して主に聞いています。祈りを通して主に語りかけています。これは主との交わりではないでしょうか。もちろん、ディボーションの時に心に浮かぶ思いが、すべて神様から来たものだと言うつもりはありません。みことばと祈りによって吟味する必要があります。

そのことを認めた上で、ディボーションが主との交わりではないとしたら、私たちは主との交わりをいったいどこに求めたらいいのでしょうか。

この二年間、私はディボーションで詩篇を読んでいます。日々数節ずつ黙想しながら、詩篇の祈りを自分の祈りとすることを求めています。たとえば、「もし あなたのみおしえが私の喜びでなかったら/それなら私は 私の苦しみの中で滅んだでしょう」(一一九・九二)という箇所を黙想していると、次のような思いと祈りに導かれます。

「主よ、この詩篇記者はなぜこんなに苦しんでいるのでしょうか。彼が生き続けられたのは、主がみことばを通して彼の心を支えたからですね。主よ、このみことばによって、私の心も支え、喜びを回復してください。」

「どのようにディボーションを始めたらいいのか」と迷っている人は、たとえば詩篇一一九篇を一か月かけて(あるいは詩篇全体を一年かけて)じっくり味わってみてはいかがでしょうか。みことばを味わうことが神との交わりであると実感することを期待しながら。

“ビーフシチュー”を味わうために
先日、数人の仲間と昼食にテイクアウトのビーフシチューを食べました。一口食べて「おいしい」と思いましたが、「でもご飯が少ないなあ。すぐお腹すくなあ」という残念な気持ちもありました。

ところが、一緒に食べた一人が夕方になって、「あのビーフシチューは本当においしかった。最近は気が滅入ることが多かったけど、今日は一日中幸せな気分だった」と言いました。シェフの話によると、そのビーフシチューは父親の代から六十年間作り続けている自慢の味だそうです。同じおいしい料理を食べていても、友人はそれを堪能しましたが、私は違いました。この差はどこから来るのでしょうか。

実は聖書を読むときも、同じようなことをしているのではないでしょうか。目の前に確かに神のことばがあり、神様がみことばを通してご自分との交わりへと私たちを招いておられるのに、その招きに応じないというように。

ビーフシチューを堪能するためのコツがあるとしたら、日ごろから料理をよく噛んで、よく味わい、感謝していただくことでしょう。同様に、私たちが日々聖書のことばをよく味わい食するときに、みことばが「蜜よりも私の口に甘い」(詩一一九・一〇三)ことを実感し、神との交わりが深まる経験となるでしょう。主に聞きながら、主に語りかけながら。

 

終わりに―聖書を読むことは「神との交わり」なのか

聖書を読むことは「神との交わり」なのでしょうか。答えは「イエス・アンド・ノー(Yes and No)」です。

ディボーションが神との交わりの時であることも、目で活字を追っているだけのことも、どちらもあるのでしょう。そして神は、みことばを通してご自身との交わりを持つようにと、私たちを招いておられるのではないでしょうか。

これは決して楽な道ではないかもしれません。しかし、この道に踏み込み、歩んだ者だけが、みことばが蜜よりも甘いことを味わうことができるのではないでしょうか。

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