スピリチュアル・ジャーニー その後 ~真の人間性の回復へのプロセス~ 第九回 自分の人生から学ぶ⑤ 高校・予備校・大学生時代~キリスト教との出合い

坂野慧吉(さかの・けいきち)
1941年、東京都生まれ。その後、北海道に移住。福島高校、東京大学卒業。大学生時代にクリスチャンとなり、卒業後、聖書神学舎(現・聖書宣教会)に入学。その後、キリスト者学生会(KGK)の主事を経て、1971年より浦和福音自由教会牧師。

 

楽しい中学時代を終え、高校生活が始まった。高校は大学受験一色で、楽しい思い出は少ない。部活は男声合唱部に入り、年に一度行われる「全国合唱コンクール」のために猛練習をした。三年生の時に、全国大会で三位となった。

大学受験は、「人生の意味」を知りたいと考えて、国立大学の哲学科を受けたが不合格であった。高校卒業とともに父の仕事の関係で、私たち家族は埼玉県川越市に引っ越した。私は同じ高校を卒業したM君とA君とともに、東京の市ヶ谷にある予備校に通った。朝は五時ごろに起きて、電車に乗って予備校に行き、いつも教室の一番前に陣取って、受験勉強に明け暮れた。予備校の教師たちは教え方が上手で、情熱をもって授業を進めていたので、私は予備校で「勉強の仕方」を習ったのだと思っている。

次の年の受験では、M君もA君も第一志望のT大に合格したが、私はある科目を失敗し、不合格になって第二志望の大学に入学した。その大学でも楽しいことはあったが、自分の中で納得できないものがあることに気づいて、翌年もう一度チャレンジして、一か月半、朝も昼も夜も猛勉強し、T大に合格することができた、父も母も喜んでくれた。

私は大学の「コールアカデミー」という男声合唱団に入った。この合唱団では、前田幸市郎先生(山形大学でも教鞭をとっておられた)が指導してくださり、ボイストレーナーもいて、発声の基本から訓練してもらった。このことは、牧師として賛美をし、説教をするために大変役に立っている。神様は私がクリスチャンになる前から、一つ一つのことを導いてくださっていたのだ。前田先生は教会音楽を指導された。その当時、先生はクリスチャンではなかったが、晩年カトリック教会で洗礼を受けられた。当時の仲間とは今も、年に一度会って歌っている。

私の人生の目的が、自分の希望の大学に合格することだったので、合格したら人生の目標を見失ってしまった。心は空しかった。「何のために勉強するのか」「良い成績をとって大学院に行くため」「大学教授となって研究し、学生たちに教えるため」「周囲から評価されるため」「結婚して、子どもを生んで、育てて……でもやがて死んでゆく」。「何のために生きているのか」「自分は何者か」―中学生の頃から問い続けてきたことが、再び心に浮かんできた。

大学二年生の時のドイツ語の教授は、無教会の集会を自分で開いていたK先生だった。授業でマルティン・ルターの『キリスト者の自由』をドイツ語で読むことになった。「キリスト教の信仰」について、先生独自の人生観を語られた。学生たちは、先生に対してキリスト教批判をし、先生が弁明するという、白熱したクラスだった。私は、本屋で『口語訳聖書』を購入して、ドイツ語聖書の「訳本」として使用していた。そのような中で聖書を通して自分の人生について、考えるようになった。

三年生になった時、弟が私を伝道集会に誘った。ちょうど期末試験後だったので集会に参加した。説教者は土屋一臣先生で、聖書からわかりやすくメッセージを語ってくださった。最初の夜の証しは、hi-b.a.のスタッフをしていた高橋敏夫先生だった。先生はその後、春日部福音自由教会の牧師となられた。伝道集会の最後に、川越聖書センターの礼拝の案内がなされたので、翌日さっそく礼拝に行った。その時の説教者も土屋先生であった。礼拝は午後から持たれていた。礼拝後、東京工大の学生であったK君と私が先生にさまざまな質問をし、夕方まで語り合った。夕方になり土屋先生が、別れ際に「君たちは近いうちに、クリスチャンになると思うよ」と言われた。K君はその夜、自分の家でキリストを信じる決心をした。

翌日、私はS教授の「トーマス・マンについて」の講義に出席していたが、頭の中では前日に聞いたイエス・キリストのことを考えていた。ふと、心に一つの想いが起こされた。「お前はこれからどのように、何を信じて生きようとしているのか。」自分自身に答えた。「私はイエス・キリストを信じよう。そしてこの方に人生をゆだねて、この方に従っていこう。」そして教室で神に祈った。「私はあなたを信じ、イエス・キリストについて行きます。」すると、その時まで経験したことのない「平安」が拡がっていた。

私は祈祷会に行き、イエス・キリストへの祈りをささげた。宣教師のディロン先生が来られて、私が信仰を告白したことを喜んでくださり、一九六五年一月十日に洗礼を受けることができた。
私はその後、予備校で共に学んだA君が卒業後に急病で亡くなったことを知った。一流企業に就職する直前の出来事であった。