321 時代を見る眼 東日本大震災から10年を経て〈3〉「時」の重み

東京キリスト教学園理事長 朝岡 勝

 

かつて震災支援に関わった私自身の経験を記した『〈あの日〉以後を生きる―走りつつ、悩みつつ、祈りつつ』(いのちのことば社、2014年)の冒頭に、マルコの福音書5章の会堂司ヤイロの12歳の娘と、12年間病に苦しんでいた女性の姿を取り上げてこう記しました。

「ここで僕たちは、12年という年月の重みに思い至る。1人の子どもが生まれて12歳になる、それほどの年月を彼女は苦しみ続けたのだ、と。
このような『時間』の重みへの想像力を持つように、と聖書は僕たちに促しを与えているのではないだろうか。
『震災から3年』。それは言葉にすれば、ほんの一言ですまされてしまうものだ。ある人にとっては、『もう3年か』というように、あっという間のことかもしれない。ある人にとっては、『まだ3年か』というように、時が止まったままのようになっているかもしれない。
では、僕にとってこの3年はどういう時間であったのか。
『時間』(クロノス)は中立的なものだが、しかし『時』(カイロス)は人によって、さまざまな伸縮や軽重の差を持つ。同じ時間を生きながら、しかしその受け取り方はさまざまなのだ。」
(本文3~4頁)

そして震災から10年。震災の年に生まれたお子さんはもう10歳。震災の年に10歳だったお子さんはもう20歳。この間に流れた「時」の持つ重みを想像し、受け取り直す日々を送っています。
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震災から5か月後の夏、岩手県宮古の避難所で出会った中学二年生の男の子がいます。一緒にお昼を食べながら、地震直後のことをぽつぽつと話してくれました。
部活の道具や買ったばかりのゲーム機がすべて流されてしまったこと、地震と津波のあと、雪が降って寒くて仕方がなかったこと、食べ物がなく、避難所で冷たいおにぎり2つを家族4人で分け合って食べたことなどなど。
食べ盛りの中学生がそう話すのを聞いて、ぐっと込み上げてくるものがあったことを思い起こします。
あれから10年。もう青年になっているであろうあの少年は、今どうしているだろうかと思いめぐらします。
時の重みを想像すること。それは忘却に抗うためにできる、ささやかな営みの一つではないでしょうか。