特集 ノンフィクションの魅力 「実話」の持つ力

実話、証し、評伝―実際に生きた人、そしてその人生を書きつづったノンフィクションが持つ力に注目し、なぜ「実話」がこんなにまで人々の心を打つのか、その魅力に迫ります。

イラストレーター みなみななみ

なぜ私は実話を読み、そして描くのだろう。仕事で実際のできごとや、体験談を描くのが好きだ。なぜだろう。理由はいくつかある。実話そのものに、心を動かす力がある。実話には人を知り、神を知り、今を見るための力がある。

緊急事態宣言の二十年前から、私の生活は、半径三キロ。犬の散歩と近所のスーパー、パソコンの前とキッチンだけでほぼ完結していた。すべてが三キロ圏内。永遠に片付かない六畳で、自分の力不足を嘆きながらの仕事と犬からの要求の混乱の中、その狭い世界ですら、自分の思いどおりにいかない。神様のサイズは身長百五十一センチ(私の身長と同じ)で、世界に対して何もしてくれない、と錯覚しその小さな世界に絶望していた。

しかし、「ななさんぽ」(『百万人の福音』二〇一五~二〇一八年)の連載では、取材で福祉、教育、医療などさまざまな現場で実際に働いてこられた方々のお話を伺った。それぞれの人の人生に触れたとき、一気に私の小さな世界の限界は崩壊した。半径三キロのちっぽけな世界観の絶望なんか、ぶっとんだ。

人は、当たり前だけれども、私とは全然違う世界に生きていて、私には想像もつかないような大きな問題と向き合っている。しかも、そのただ中に働かれる神様の実話を聞いたときには、世界も神様の大きさも全く誤解していたことに気づいた。自分の知っている神様が全部と思って過小評価。象のしっぽの先が象の全部だと思っていたくらいまぬけだったと気づくたとえ話みたいなもの。半径三キロで私が神様を何も感じられないときでも、神様は三キロのその向こう側で、すごい勢いで働いている。実話にはそんなふうに世界を広げてくれる力がある。神様の大きさの誤解を解いてくれる力がある。

『ぼくのみたもの 第五福竜丸のおはなし』(いのちのことば社)という絵本は、描いた、というよりも「描かせられた」というほうが正確だ。「実話の力」によって。

木場にある第五福竜丸展示館に初めて行った日、学芸員の方の説明を聞いていたら、自分が、水爆実験の現場にいたと錯覚するくらい、はっきりと光景が目に浮かんだ。その光景が展示館を出た後も何週間もずっと頭にこびりついて離れない。出版の予定もなにもなかったけれど、絵に描かずにいられなかった。その絵を見た、いのちのことば社の編集さんを通し、絵本として出版していただいた。ただただ、「実話の力」に私は動かされた。

その絵本を見た被爆二世の山田みどりさんから「絵本をつくりたい」と連絡をいただいたのは、その後だった(『ヒロシマの少年じろうちゃん』リブロス出版)。被爆二世としての思いを綴ったみどりさんの詩を読んだとたん、絵本の何ページという展開のまま、すぐに情景が思い浮かんだ。文章力ももちろんだが、これもまた「実話の力」。とはいえ、実際に絵に起こすとなれば、間違いがあってはいけない。それでたくさんの広島、原爆関連の資料、証言、記録を調べた。絵本制作の数か月の間、自分は一九四五年の広島にいるのではないかと思うくらい、毎日広島のことだけを見て、読んでいた。

そこで、被爆された方々の一人ひとりの人生に触れた。それまでは私の中で、ただの一九四五年八月六日、「犠牲者十四万人」という数字だけだった。資料の実話を読みすすめ、それぞれの人生に触れた。家族と暮らす日常が一瞬でなくなったこと、被爆による病気の痛み、苦しみ、そして貧困、差別。そこで生きていたそれぞれの人生の物語のその真実に触れたときに、私の中で、広島がただの数字ではなくなり、心に痛みを伴う自分の一部になっていった。

同じことはその翌年、『父の東京大空襲』の自費出版の絵本制作でも感じた。昔、父から東京大空襲の話は何度か聞いていた。でも実際に絵本にするにあたり、父が残しておいた手記をあらためて丁寧に読み直した。同じ日に被災した方々の証言集、他の資料にもあたり、絵本を描く、という作業をしながら、父の体験を追体験していった。

父が苦しく、つらい思いをしていた、ということを、父の死後三年経って、初めて自分の心で感じた。それまで父がどれほどつらかったかなんて、微塵も思ったことがなかったのだ。父が逝った後だけれど、父を前よりももっとよく知った気がする。「つらかったね、お父さん」と今は心から思う。実話には人を知る、その力があると思う。

昨年から半年間、杉原千畝氏のマンガを描くため、伝記、資料を何冊も読んだ。六千人のユダヤ人の「命を助けるビザを書いた偉人」としか知らなかったが、「私は当たり前のことをしただけ」という千畝氏の言葉に触れた。

ユダヤ人だろうと日本人だろうと関係なく、誰の命も大切、千畝氏はそう信じていたし、それが当たり前のはず。だが、それが当たり前ではない世界だったので、千畝氏は「偉人」になった。
今はどうだろう。命や人権がないがしろにされている人たちが、日本に今もいるじゃないか、と千畝氏の実話をマンガにしながら何度も思った。

今を見ること、それもまた「実話」の持つ力だ。だから私は実話を読み、描いていくのだ。

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『語り継ぐクリスチャン実話 あの日、ぼくらは 天の家、独立学園、杉原千畝 篇』
結城絵美子 文/みなみななみ 絵・漫画
A5変型判 定価1,430円(税込)

『ぼくのみたもの 第五福竜丸のおはなし』
みなみななみ 文・絵
B5変型判 定価1,760円(税込)

『語り継ぐクリスチャン実話 あの日、ぼくらは』の「杉原千畝」より