日常の「神学」 今さら聞けないあのこと、このこと 第13回 教会と建物

岡村 直樹

横須賀市出身。高校卒業後、米国に留学。トリニティー神学校を卒業し、クレアモント神学大学院で博士号(Ph.D.)を取得。2006年に帰国。現在、東京基督教大学大学院教授、日本福音主義神学会東部部会理事、hi-b-a責任役員、日本同盟基督教団牧師。

 

私たちが日常会話の中で使う教会という言葉は、「礼拝をする建物」を指す場合がほとんどだと思います。しかし新約聖書の時代には、教会という特別な建物は存在しませんでした。

「シナゴーグ」と呼ばれるユダヤ人の会堂に集まることもありましたが、当時のクリスチャンの多くは、信者の家に集まって礼拝を捧げていました。礼拝の時間になると、普段は食事をしたり、作業をしたりする部屋を整え、礼拝の場所としていたのです。

家の事情や、集まる人数に合わせて場所が変わることも多かったことでしょう。実際、新約聖書に登場する教会という言葉は、ギリシア語の「エクレシア」の訳で、それは建物ではなく「人の集まり」を指します。

二十一世紀の今、建物としての教会にはいろいろな形態があります。新約聖書の時代のような家の教会もありますし、建物やビルの一室を借りて礼拝堂としている教会もあります。もちろん自前の立派な会堂を持つ教会もあります。そしてそれぞれにメリット(長所)とデメリット(短所)があります。

家の教会の最大のメリットは、その利便性かもしれません。誰かが自分の家の一室を礼拝堂として提供しさえすれば、そして礼拝者がそこに集まれば、その週からでも礼拝を始めることができます。

そこを正式な「教会」と呼ぶかどうかは、所属する教団のポリシー等によっても異なりますが、新たな教会開拓にはもってこいの形態です。

一方デメリットは、やはりそのサイズです。大豪邸であれば別ですが、一般的な家であれば、部屋に十五人も入ればいっぱいになってしまいます。

建物やビルの一室を借りる場合はどうでしょうか。そこにあるメリットもやはり利便性です。集まる人数や集会の形態に合わせて、建物の場所や大きさを随時変更することができます。

また、土地、建物すべてを購入することと比べれば、出費はかなり圧縮されますので経済的というメリットもあると言えるでしょう。

米国などではかなり大規模な教会でも、あえて自前の礼拝堂を持たず、浮いた出費を積極的に伝道や教育、また地域活動のために充てるというポリシーをもつ教会も多数存在します。

デメリットは、特に日本では、宗教活動を嫌がる貸主が多いことや、契約延長の打ち切りがあれば転居せざるを得ないことなどでしょう。

自前の礼拝堂を持つことの最大のメリットは、地域での存在感や信頼性かもしれません。賃貸の場合、既存の建物が使われますので、看板は出ていても、そこに教会があることに気づいてもらえないことがあります。

しかし自前であれば、伝道の観点からも、礼拝堂らしい礼拝堂を建て、その存在を地域にアピールできます。さらに加えて、「地元にしっかりと根を張った教会」として地域の人に、より信頼してもらえるでしょう。

デメリットには、礼拝者の人数が増えた場合の、移転や増改築の不便さを挙げることができます。しかし最大のデメリットはやはり出費です。新たに土地を購入したり、また新たに礼拝堂を建てようとしたりする場合、その額は決して小さなものではありません。もちろんメンテナンスの費用もかさみます。献金の大半をそこに充てざるを得ない教会もあるほどです。また長期にわたるローン返済は、教会の若い世代への大きな負担となることもあります。

こうしてみると、建物としての教会には、さまざまな形態があることがわかります。またそこに正解はなく、それぞれの教会の特徴や地域性、またミニストリーの方向性や信念によって決められていくものです。オンラインによる礼拝を実施する教会も増えている今、大切なのは人の集まり(エクレシア)としてのそれぞれの教会が、聖書を通して示される「ビジョン(目標)」に向かって一致して歩むことです(エペソ4・3参照)。

最後になりますが、私たちは時に教会の礼拝堂を、何か特別に「神聖な場所」かのように感じたり、またそのように扱ったりしてしまうことがあります。

もちろんそこは礼拝の場所ですから、人々がメッセージや賛美に集中できるよう、敬意をもってきれいに保つことは大切です。しかし神様は、礼拝堂の中におられるわけではありません。

たしかに旧約聖書の時代には、幕屋(移動テント)や神殿の中にご自身を置かれましたが、新約聖書以降の時代、神様は人の中に住んでくださいます。

「神の御霊が自分のうちに住んでおられる」(Ⅰコリント3・16)とパウロが語っているとおりです。ですから、礼拝堂を整えることも大切ですが、そこに集まる人々の心が「神様の居場所」としてふさわしく整えられることのほうがもっと重要なのです。

 

次のページへ