新連載 ヘブル語のススメ ~聖書の原語の世界~ 1回目 原典で聖書を読みたい!

城倉啓
1969年、東京生まれ。西南学院大学神学部専攻科修了後、日本バプテスト連盟松本蟻ケ崎教会の牧師就任。
2002年、米国マーサ大学マカフィー神学院修士号修了後、志村バプテスト教会牧師を経て、現在、泉バプテスト教会牧師、東京バプテスト神学校講師。

 

1回目 原典で聖書を読みたい!

 

「原典で聖書を読みたい」と思って神学校に入る人は、相当数存在するでしょう。そして、それに勝るとも劣らない数で、「結局、ヘブル語って何だったの……」という徒労感を持ちながら教会に赴任する人も存在します。かく言う私も、その一人でした。

三十年前の西南学院大学神学部で使われていたヘブル語教科書は、なんと英語で書かれていました。ヘブル語の辞書も英語仕立てです。そもそも英語が苦手な私は、教科書や辞書を読むために英語の辞書を引くという始末。

いったい何の勉強をしているのかわからぬまま、教科書も半分しか終わらず、牧会現場へ赴くこととなりました。

このままでは終われない!と思い、牧師をしながら六年間、独学でヘブル語の教科書を何度も復習しました。

それでもなお、「原典を読めた」という手応えを感じず、とうとう一念発起して聖書語学(ギリシア語・ヘブル語・アラム語)を学ぶために米国留学をしたのでした。英語の苦手な、この私が―。

a   b

幸いなことに、米国でヘブル語を教えることに長けた師匠に出会いました。私はその教授法に舌を巻きました。彼女の作った教科書は、文法知識を七割に圧縮していました。とにかく教科書を全部終わらせることを最優先にし、全体としてヘブル語が何であるのかを、学生たちに把握させました。その上でヘブル語原典を解読するための、きわめて有効なコツと道具を伝授したのでした。省エネ、最短コースによる暗号解読、まさに目からウロコでした。

師匠の口癖は、「文法的に可能ならば、どんどん個性的な私訳を試みよ」というものでした。ここに、聖書を原典で読む魅力があります。

日本聖書協会による文語訳・口語訳・新共同訳・協会共同訳や、新改訳、バルバロ訳、フランシスコ会訳、関根正雄訳、岩波訳などを読み比べてみると、同じ聖句であってもずいぶん異なる訳文の場合があります。英語のinterpretationという単語が、「翻訳」という意味と「解釈」という意味とを併せ持つことは示唆に富んでいます。あらゆる翻訳に必ず翻訳者の解釈が入り込みます。異なる言語の間では似た意味を持つ言葉でも、必ず意味範囲にズレがあるからです。ヘブル語で複数の意味を一単語で表していても、日本語に翻訳する際に一つに絞らなくてはいけない場合もあります。翻訳者は原意を解釈して、少しズレた一つの訳語をやむをえず選んでいるのです。

いったい本当のところ、聖書に何が書いてあるのか、知りたくなるのは当然の好奇心です。ましてや私たちにとっては神のことばなのですから。

他人の翻訳や解釈に頼らず神のことばを直解しようとすることは、プロテスタントの本領でもあります。「みことばのみ」の精神です。直解し、複数の広い意味範囲を把握した上で、「われここに立つ」と自分の翻訳・解釈を提示できたら、なんと意義深く楽しいことでしょう。

a   b

たとえば、創世記一章二節の後半「神の霊がその水の面の上を動いていた」を、私は次のように訳します。

「しかし神の霊はその水の表の上に動き続けている。」

ヘブル語の接続詞「そして」(ヴェ)の意味範囲は非常に広く、「そして」から「しかし」までほぼ何でも入ります。この接続詞は物語が続いていることを表しているので、訳出しない場合も多くあります。

「神」(エロヒーム)は「神々」をも意味します。文脈しだいで訳し分けるのです。「神々」から転じて「激しい」とも訳されえます。「霊」(ルアッハ)は、「風」「息」をも意味します。「動き続ける」(ラファト)には、「浮遊する」「震える」の意味もあります。

神の霊が天地創造に積極的に参与していたと考えるならば、私訳のようになります。二節前半の「茫漠として何もない」状況を解決しようという、霊である神の働きかけです。

しかし、逆の解釈もありえます。「そして神々の風がその水の表の上に吹き荒れ続けている」という翻訳です。この場合は「神」(エロヒーム)を「神々」、ないしは「激しい」と訳し、そのような創造に反する勢力が「茫漠として何もない」状況に拍車をかけていると理解するのです。

このような翻訳作業を通じて、私たちは自らの創造信仰や聖霊信仰について思いをいたし、霊性を深めることができます。これが原語で聖書を読む魅力です。

この連載を通して、聖書の四分の三をなすヘブル語原典について、楽しく学んでいきましょう。