特集 コロナ禍をどのように歩むのか ウイルスが心にもたらすもの

新潟青陵大学 大学院教授  碓井真史

新型コロナウイスルの感染拡大は、私たちの心と社会をあっさりと破壊しました。世界の観光地が閑散とし、行事は次々と中止。教会の礼拝さえ行くことができなくなりました。
もちろん、感染予防活動は正しいことで、距離をとることも必要です。しかし、ウイルスは私たちの体以上に、心に攻撃をしかけました。
マスクを奪い合い、店員をののしり、自分に近づく人に怒鳴り声を上げ、県外ナンバーの車に石をぶつける。そんなことが、日本のあちこちで起こりました。
何百年もかけて差別を減らしてきたはずなのに、欧米ではアジア人差別が起こりました。日本でも、県境を越えた移動に関して、県知事同士がぶつかりました。
あなたも、地域で最初の感染者、学校や会社で最初の感染者にはなりたくないと思ったことでしょう。
病気自体の怖さは、一番目にかかっても十番目にかかっても同じはずですが、私たちは病気以上に、人々からの非難を恐れたのです。
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私たちは目に見えない未知のものを恐れます。強い不安と恐怖は、過剰な防衛本能を呼び起こします。すると、私たちの心は自分や家族を守ろうとして、内向きになります。交流を避け、よそ者を追い出そうとするのです。そうなれば、互いに疑心暗鬼になり、相手をバイキン扱いし、愛は枯れ果てます。
主観的な動機は、家族愛や愛校心、愛社精神、郷土愛です。

でも、親がトラックで東京や大阪に行っただけで、子どもが入学式に出席できませんでした。営業している店に、嫌がらせを行う「自粛警察」も出現しました。医療スタッフへの偏見差別も激しさを増しました。子どもを連れた看護師の母親が、公園から追い出されたこともあります。マスクをしていない人を責め立てる「マスク警察」も登場です。

自分がルールであり、ルール違反をする者、感染した者、その可能性のある者は、もはや排除すべきよそ者なのです。
強い不安の中で、人はゼロリスクを求めます。絶対に何があっても感染したくないと思います。しかしそれは、しばしば人権侵害につながるのです。
新型コロナのせいで、子どもも大人もストレスがたまります。そんな人々が集まれば、衝突が起きるのも当然です。
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感染症拡大のような災害級の出来事は、私たちの心と社会を揺さぶります。土台がしっかりしていなければ、あっさりとメッキがはがれ、崩れ去ります。「コロナ疲れ」「コロナうつ」「コロナ離婚」といった言葉も、マスコミを賑わせました。

悪い人が悪いことを悪意をもって行うようなとき、それはとてもわかりやすいものです。
しかし、善人が愛と正義を動機にして、「感染予防」「命の問題」を錦のみ旗として行動するときにこそ、問題はひそやかに巨大化するのです。偏見差別は、される側は敏感に感じ取って傷つきますが、している側には正しい判断としか思えないのです。

新型コロナの感染を防ぐために、「新しい生活様式」が示されています。さまざまな行動が挙げられていますが、これは基本的には自分自身の行動を正すためのものです。他人を非難するためのものではありません。それでも人々は、不安の中で律法主義者のようになり、「復讐するは我(神)にあり」(だから個人的な復讐など考えるな)とは思えず、自分の不快感を相手にぶつけてしまうのです。

命を守る行動は、もちろん大切です。ただし、物理的距離をとりながら心の距離をとらないことは、簡単ではありません。災害心理学の研究によれば、パニックを起こさずに生き残る秘訣の一つは、「相手のことも考えよう」なのですが。

自分だけが助かろうと思い、みんなが救命ボートに殺到すれば、助かる命も助かりません。それは、感染症拡大時の地域協力、国際協力も同じではないでしょうか。分け合えば足りるのに、奪い合うから不足します。心の分断は、感染リスクを高めます。

命を守るために誰かが必死に戦っている姿。それは、現実でもドラマでも感動的です。私たちに、愛と希望と勇気を感じさせます。誰かの命を守るために、誰かが懸命に努力し、犠牲を払って頑張っている、そこに私たちは感動します。

命のためといっても、人を押しのけて自分の命を守るためだけの行動は、醜く、混乱と絶望を生むのです。

ゼロリスクを求めることは、非科学的で迷惑行為になることもあります。しかし、私たちは、ゼロリスクを求める人にも理解と共感を示したいと思います。愛にあふれた賢い人同士でも、新型コロナに関する考え方は違います。どちらが正しいとも言えません。いつもなら穏やかに話せる人も、コロナ禍では衝突し、傷つけ合うこともあります。

新型コロナウイルスは、私たちのことを試しています。罪の本性が暴かれるのか、愛と祈りの心を取り戻すことができるのか。今、私たちの心が問われています。