特集 LGBTを考える 福音の本質に迫る問い

シオンの群教会 牧師/聖契神学校 教師  吉川直美

神学校の授業で、同性愛(LGBT)の問題を取り上げてから十年になる。当初は「LGBT」という用語も周知されておらず、多くの神学生が開口一番、「同性愛は罪ですよね」と眉を顰めたものだ。関心事はもっぱら「どうやって彼らを滅びから救い出すか」にあった。しかしこの十年で、セクシュアリティに対する「世間」の状況は大きく変わった。教会も理解しようと努め始め、私にも講演依頼が舞い込むようになった。

近々の調査ではLGBTを自認する人の割合は概ね十二~十三人に一人である。ところが、周囲にLGBTの人がいるかと問うと九割方が「いない」と答える。「教会で」となると、さらに姿が見えない。

存在していても隠しているか、教会には寄りつかないかのどちらかであろう。実際、躊躇いがちに「私のような人間は罪人だから、教会には受け入れてもらえませんよね」と問う声を何度か耳にした。教会はこれまでどれほど多くの人を、キリストから遠ざけてきてしまったのだろう。

まず私たちは、セクシュアリティやLGBTについてもっと知る必要がある。単純に男女を二分化して、そこに当てはまらない人の声を聴かずに「罪」と片付けてはいないだろうか。セクシュアリティは「心と身体と愛」の結合であり、もし踏みにじられれば「魂の殺人」と言われるほど、相手の尊厳に関わっている。しかし彼らは、ストレート(身体と心の性が一致し、性指向が異性に向かう人)であっても罪と恥が付きまとう、極めてナイーブな領域に踏み込まれ、嘲笑され、時には殺されてきた。あまつさえ教会においては、独身を貫くか、異性愛者として生きるか、罪人の烙印を押され続けるかの選択を迫られてきた。想像してみてほしい。クリスチャン家庭で育ち、「同性愛は罪」と教えられてきた子どもが、自分の意思ではどうにもならない性指向に気づいた時の絶望を。何十年も祈り続けた人に「祈れば治る」(医療では治療対象ではない)と励ます残酷さを。

しかし「知らない」と「知る」ことが始まりであり、「知り続ける」ことが障壁を取り除くことをマーリン氏は証明してくれた。ストレートの白人男性、ごりごりの福音派クリスチャンであり、ホモフォビア(同性愛嫌悪)でさえあった彼が、親友たちのカミングアウトを受けて葛藤しながらも、LGBTコミュニティに足を踏み入れ、驚くべきことに隣人となったのである。

一方、私たちの前に横たわる最も困難な問題は、行き着くところは“聖書をどう読むか”に関わるということだ。私には、同性愛を罪とするか否かが、まるで聖書信仰の踏み絵のように思えてならない。そもそも罪か否かを私たちが裁けるのだろうか。あるいは、カエサルに税金を払うのは律法にかなっているかどうかと問う宗教家の質問にも似ている。主イエスはこうした質問に「イエス」でも「ノー」でもなく、神の国の次元で返された。この問題にも第三の道があるのではないだろうか。マーリン氏は、「キリストにあるアイデンティティに生きる」道を提示する。

これはLGBTに限らず、福音の本質に迫る問題提起でもある。「LGBTのようではなく、ストレートであること」に感謝して生きるのか、それとも、キリストに赦された罪人として、あわれみを求めて生きるのか、そして他の罪人を自分自身のように愛するか、と問われているのだ。

かくいう私も幼少期から性別違和があり、十代後半は男の子の成りをして、男性一人称を使っていた。当時は「性同一性障害」という概念もなく、宙ぶらりんな存在のままどうやって生きていこうか悩み、早逝することばかり考えていた。信仰を与えられた当初は、神が私を「女性」として造られたのなら喜んで受け入れようと考えた。しかしそれは、女性のふりをして生きることを選択したのであって、「治った」わけではない。今もなお、自分は何者だろうかと揺れ動きつつ、主に仕えていくことが赦されている。マーリン氏とはまた違う立場で、架け橋になりたいと思う。

日本においては、アメリカほどLGBTと教会の対立構造は根深くはない。とはいえ、福音派の牙城である「いのちのことば社」から本書が出版されれば、双方向からの批判に曝されるであろう。「天使が踏み込むのを恐れる場所へ飛び込んだ」愚か者(『LGBTと聖書の福音』まえがき)に敬意を払いたい。その批判が対話を生み、ともにキリストの似姿に成長するためのものとなることを切に期待している。

特に断固として罪だと思っている方にこそ、手に取って読んでいただきたい。LGBTの声に耳を傾け、彼らの中に働かれるキリストを見いだそうではないか。また、聖書の語る愛など偽善だと思っているLGBTの方にも読んでいただきたい。キリストの愛をもって、自分と隣人のセクシュアリティを管理していくことはすべての人への祝福となる。

イザヤ書五六章には、主の契約を守るなら、神の民から除外されていた宦官に「永遠の名」を与え、「わたしの祈りの家」で楽しませるとある。聖書を信じる者と、聖書によって排除されてきた者がともに主の食卓にあずかるなら、神の国の愛と恵みが満ちあふれるに違いない。