305 時代を見る眼 教会と子ども食堂 〔2〕愛がないなら

『現場報告 “子ども食堂”これまで、これから』共著者 与野 輝

 

「たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。」(Ⅰコリント13:2)
神様は、必要な物は必要な時に、私たちが望むよりもはるかに豊かに与えてくださいました。同時に、私に愛がなかったときには、悔い改めの機会も下さいました。

「イエス様が今この日本におられたら、難しい状況にある子どもと保護者さんたちにどうされるか。それを具体的に考えていくことが重要」と牧師から助言をいただいていました。しかし、“来てくれただけで感謝して、ありのまま受け入れる”ことは、決して生易しいものではありませんでした。

世代をまたぐ物心両面での困窮がもたらす重荷は、保護者さんたちの人格形成上に大きな影を落としており、固く心を閉ざして引き籠っていたり、逆に身を守ろうとして過剰反応してきたりと、私たちも忍耐を学ぶ機会も少なくありませんでした。
また、発達障害という重荷を持つ子たちには、医療・教育両機関ともに対応が確立されておらず、他の子どもたちと安全に遊べる環境を作ることも容易ではありませんでした。

一番難しかったのは、子どもたちの権利と、保護者さんの尊厳・選択の自由が相反してしまう深刻なケースでした。子どもたちを守るためにするべきことがわかっていたとしても、愛のない言葉でそれを保護者さんに直言すれば、事態は悪くなるばかりでした。

これらの出来事は、重荷を負った方々に対してイエス様がされたことを、その愛を受けた私たちがどのように実践できるのか、という重い問いかけでした。

まず私たちが神様にいただいた愛をもって、子ども食堂に来てくださった方々に仕え、その方々の重荷を理解させてもらってからはじめて、相手がこちらの話に聞く耳を持ってくれることを教えられました。私たちの手にはどうしようもないときには、祈りをもって御手に委ねているうちに、それまでの焦燥感のようなものが少しずつ和らいでいきました。焦燥感の根元には、神様の愛とは違う「かわいそう」という人間的な想いがあったのです。

神様の目から見れば、誰も同じであるのに、過剰に「かわいそう」と思うことは、そもそもありのままの姿を受け入れていないのではないか、と考えるようになりました。私たちも、イエス様の十字架の百万分の一にも満たない小さな十字架を負わせてもらっているんだと気づかされていきました。