日常の「神学」 今さら聞けないあのこと、このこと 第1回 洗礼式と聖餐式

岡村 直樹
横須賀市出身。高校卒業後、米国に留学。トリニティー神学校を卒業し、クレアモント神学大学院で博士号(Ph.D.)を取得。2006年に帰国。現在、東京基督教大学大学院教授、日本福音主義神学会東部部会理事、hi-b-a責任役員、日本同盟基督教団牧師。

「洗礼式と聖餐式は、イエス・キリストご自身が定められた大切な儀式です(マタイ28章、ルカ22章)。「聖礼典」とも呼ばれます。教会には、ほかにも結婚式や葬式といった儀式がありますが、それらは「聖礼典」とは区別されます。
洗礼とは読んで字のごとく、「洗う」ことを意味します。また聖餐の「餐」は晩餐の「餐」、つまり食べることを意味します。
私たちは、朝起きて顔を洗い、食事の前には手を洗い、一日が終わるときにはお風呂で体を洗います。「洗う」ということは、私たちの日常生活の中で当たり前のように繰り返される、とても身近な行為ですね。また食べるということも、一日の中で(朝昼夕、時にはおやつも含め)何度も繰り返されます。
多くの人は、洗礼式や聖餐式に対して、荘厳なイメージ(時には近寄りがたい感覚)を持ちますが、行為そのものはとても日常的で身近です。イエス・キリストは、このふたつのとても日常的で身近な行為を通して、わかりやすく聖書の神様について教えてくださるのです。
聖書の神様は、人間の目には見えません。霊的な存在だからです。しかし人間は、目に見えない霊的な神様を信じることに困難を覚えます。だから神様は旧約聖書の時代、目に見えるさまざまなかたちで(時には雲や火の柱を通して、時には天使の姿を用いて)、ご自身を人間に示してくださいました。そして新約聖書の時代には、神様ご自身が人間の姿をとり、イエス・キリストとして地上にあらわれてくださいました。またそれだけではなく、人間と生活を共にし、人間の苦悩を味わい、私たちの罪のために身代わりとなって十字架の上で死に、そしてよみがえってくださいました。
それらすべては、私たち人間に対する神様の愛の行為であり、一方的な恵みによるものです。洗礼式と聖餐式は、目に見えるかたちで地上に来てくださったイエス・キリストが、同じようにわかりやすく、日常的で身近な行為を通して、ご自身の愛と恵みを私たちに教えるために定めてくださった儀式なのです。
洗礼そのものによって、人が救われるわけではありません。しかし洗礼には、たくさんの大切な教えが含まれています。イエス・キリストが十字架の上で流してくださった血によって私たちの罪が洗われ、一方的に神様の前で「よし」とされたこと。イエス・キリストが一度死んで後、よみがえられたように、私たちの生き方も洗われて新しくされること。また洗われることによって、私たちがイエス・キリストを頭とする、教会という愛の信仰共同体の一員となることなどです。
日本人が洗礼を受けようとするとき、家族や友人からの反対に遭うことがあります。その中で、「反対を押し切って洗礼を受ける」「説得を試みる間、しばらくは受けない」といった、人間の「決断」に焦点が当てられてしまうことがあります。しかし、洗礼の中心にあるのは、神様の愛と恵みであり、人間の行為ではありません。このことをしっかりと覚える必要があります。
また洗礼式の方法や受ける年齢は、教会によって異なることがありますが、それぞれの教会の持つ神学的伝統をよく理解し、それを尊重することも重要です。ひとりの人が受ける洗礼は一度きりですが、教会において繰り返しこの儀式に参列できることは、信仰共同体に与えられた特権でもあります。
イエス・キリストの定められた聖餐式の中にも、たくさんの大切な教えが含まれています。また聖餐式は、その背景にある「過越の祭り」との関連の中で理解することが重要です。ぶどう酒に象徴されるのは、イスラエルの家を守った子羊の血、すなわち、十字架の上で私たちの犠牲となって流されたイエス・キリストの血です。種なしパンは、神様が私たちを養い、また力づけてくださることを表しています。またイスラエルの民がこの祭りを通して、来たるべき救世主への希望を確信したのと同様、クリスチャンは聖餐式を通して、キリストの再臨への希望、そして、それを待ち望む自らの信仰の姿勢を再確認しなくてはなりません。
このように、イエス・キリストが定めてくださった洗礼式と聖餐式は、崇高すぎて近寄りがたい儀式ではなく、また当たり前のように習慣化されるべきイベントでもありません。それらは、神様の愛と恵み、そしてイエス・キリストの苦難を再確認する時であり、希望と信仰の活力を与える大切な儀式です。クリスチャンとして、毎回、新たな思いをもって、これらの儀式に臨みたいものですね。