けっこうフツーです―筋ジスのボクが見た景色 第2回 ステレオタイプは越えられる?

黒田良孝
(くろだ・よしたか)
1974年福井県生まれ。千葉県在住。幼少の頃に筋ジストロフィー症の診断を受ける。国際基督教大学卒。障害当事者として、大学などで講演活動や執筆活動を行っている。千葉市で開催された障害者と健常者が共に歩く「車いすウォーク」の発案者でもある。

私は四十五歳の筋ジストロフィー症患者で、ほぼ寝たきりの生活を送っています。皆さんは筋ジストロフィー症(以下、筋ジス)という病気をご存じでしょうか? この病気は三十年ほど昔は「二十歳までの命」というセンセーショナルな触れ込みでドラマなどの題材になり、世間の注目を集めることもありました。小学校まで普通に暮らしていた子どもが突然難病に冒され、家族が医師から「現在の医療では根本的な治療法はなく、病気の進行を止めることもできない。二十歳を越えられるかどうかもわからない」という衝撃的な告知を受けることになります。ドラマの題材になるのに十分なエピソードです。メディアを通じて世間の人に知られることもありましたが、患者数も比較的少なく、社会進出も限られている現状においては、まだまだ一般の理解が得られているとは言いがたい状況です。

筋ジスは進行性の筋肉の病気で、年齢を重ねるごとに少しずつ身体の機能が奪われていきます。私の場合は小学六年生の時点で歩くことができなくなり、車いす生活になりました。その後も病気の進行は止まらず、ついには心臓や呼吸機能にまで影響が及び、今では人工呼吸器などの機械なしでは生きることのできない体となりました。車いすに長時間乗っていると心臓に負担がかかるので、一日の大半はベッドで過ごします。

「自力では何もできず、人工呼吸器を装着してベッドで過ごすことがほとんど」と聞くと皆さんはどのようなイメージをもたれますか? いろんな意見があるかと思いますが、素直な印象としては「かわいそう」なのかもしれません。「重度な障害があるのに頑張って明るく生きていて偉い」と褒められることもあります。しかし、個人的にこの評価は正当ではないと思っています。たしかに身体に障害のない人と比べると、生活する上での不具合もありますし、つらいことや悲しいことにもおそわれます。さらに人生の最大の試練である「死」は、いつでも隣り合わせで、片時も頭から離れることはありません。客観的に見れば非常に特別な状況なのですが、本人は案外落ち着いて「フツー」に受け止めています。時には悲嘆に暮れることもありますが、今、生かされているのですから、何もしないですべてを放棄するわけにもいきません。

世間一般の評価だと、私たち障害者は「障害に負けず頑張って生きている強い人」ということになりますが、それはステレオタイプ(先入観)だと思います。
古代ローマのカエサルが言う「見たいと思う現実」なのかもしれません。テレビのチャリティー番組などで描かれるような障害者像は「ある一面」です。もちろん一部には尊敬に値する立派な生き方をしている人もいるし、人に感動を与えている障害者もいますが、すべての障害者にそれが当てはまるわけではありません。周囲の方に評価されて期待されることはもちろんうれしくはあるのですが、型にはめられるのは窮屈です。寝たきりでベッドにいるだけで、すべての人が思索を深めて哲学者や宗教家になれるわけではないのです。

障害者も重い病に冒されている人も健康な人も本質的に何も変わりません。だからこそ神により頼むのではないでしょうか。神の前では誰もが「重荷を負っている人」なのです。障害者がかわいそうであるとか立派であるという優劣をつけることは意味がありません。先入観を捨てて、障害者と関わってほしいと私は思います。
そうすることで、障害者であろうが健常者であろうが、思い悩んでいることや大事にしていることはさほど変わらないということに気づかされると思います。ぜひとも肩の力を抜いて「フツー」に話しかけてみてください。

今私は、街なかにあるアパートの一室で原稿を執筆しています。執筆しながらも、今日の晩ご飯は何にしようかなどさまざまなことを思い煩っていますが、このフツーの暮らしを営める恵みにとても感謝しています。